恩人・麻田恭一さんからのプレゼント(長文です) 2026年1月22日(木)

<はじめに(終わった後に)>
今回のブログの<はじめに>は、実は<おわり>に書いています。この後の本当の<はじめに>書いているように、ろくに知識もなくとにかく書いてしまったので、世界公開する前にまずは麻田恭一さんにチェックしていただこうとメール送信しました。
すると3時間ほどのちに赤で加筆したものを返信してくださったのです。
これは願ったりかなったり!!!
まさに私が知りたかった部分です。
そういうわけで、赤加筆の部分をそのままお借りして世界公開いたします。

<はじめに(本当の)>
本日、麻田恭一さんからプレゼントをいただきました。そこでこのチャンスに、麻田さんが恩人である理由を書き残すことにしました。おそらく長文になります。しかも内容は私自身がよく知らないことが多い上に、断片的な知識を勝手につなぎ合わせて、しかも時系列がかなりぐちゃぐちゃです。以前書いていることの繰り返しの部分もかなりあります。そのあたり我慢しつつお楽しみいただけると幸いです。

<奏楽堂日本歌曲コンクール敗退・入賞の歴史
 1998年 36歳 第9回(初出場)1次予選敗退(198人中67位・通過45人)
 1999年 37歳 第10回(2回目)1次予選敗退(203人中56位・通過45人)
 2000年 38歳 第11回(3回目)1次予選通過(198人中30位・通過45人)
                2次予選敗退( 45人中16位・通過11人) 
 2001年 39歳 第12回(4回目)1次予選敗退(198人中49位・通過47人)
 2002年 40歳 第13回 (5回目) 1次予選通過(223人中20位・通過50人)
                 2次予選通過(50人中7位)
                 本選入選(11人中6位)
 2003年 41歳 第14回(6回目) 1次予選通過(183人中18位・通過49人)
                  2次予選通過(49人中4位)
                  本選2位(8人中)

<見知らぬ人からのFAX>
 2002年、本選で入賞。帰宅後、自宅に知らない人からFAXが。





















この知らない人が麻田恭一さんです。

<2002年に書いたエッセイから終わりの部分を抜粋>
2002年5月29日、勤務を終え家へ帰るとFAXが届いていました。
「堀田恭平」という見知らぬ人物からのFAXは、大変嬉しい内容ではありましたが、疑問が多すぎ!
 ・この人を知らないはずなのに、何となく名前に見覚えがある
 ・このような雰囲気の文章をどこかで読んだことがある
 ・文章がうますぎる
 ・このような人物に売った覚えもないのに、この人は私のエッセイを読んでいる
 ・音楽的にただの素人ではない
 ・名前は堀田恭平なのに、発信先の名前(FAXに勝手に機械が書き込む名前)はA
  さん

そこでインタ-ネットを使って検索すると・・・・・・・・
「ははあ、なるほど」
関先生のCDの推薦文を書いている人。しかし、疑問は残ります。なぜその人が私のエッセイをお読みになっているのでしょうか。
「・・・・・・・あっ!これ、堀内さんだ」
私はこう推理しました。
 「堀田恭平は堀内さんのペンネ-ム。堀内さんが(音楽之友社の事業部長で、関定子先生のマネージャー)、Aさんの家からFAXした」
と。
すぐに堀内さんに電話。
私の推理は見事に外れていました。
堀田さんは堀内さんの友人Aさんのペンネ-ム。堀内さんが私のエッセイをAさんにも貸出。コンク-ルも聴きに来ていらっしゃって、私のことをとても気に入ってくださったのだそうです。そのFAXの半分は、もったいないほどの褒め言葉。残り半分にはAさん手作りの表彰状。あんまり嬉しいので、その表彰状をここに披露させていただき(上の写真)今回のエッセイを終わらせていただきます。

<麻田さんのお父様>
ここが今回のメインとも言えるところ。その割に知識がいい加減というか断片的というか、結局正しくないかもしれないというか・・・。もしそんな部分があれば、きっと麻田さんがご指摘くださると思います。ですからこのブログ、時を空けて何度かお読みになることをお勧めいたします。(・・・と書きましたが大丈夫、チェック済みです)

麻田さんのお父様(この後、麻田父 と書きます)は、数年前に90歳以上の長寿を全うしてお亡くなりになっています。

満洲のハルビン学院(ロシア語教育で有名)を卒業した麻田父は、終戦後ハルビンでソ連軍による日本人狩りに遭い、「日本へ帰してやるから列車に乗れ」と大勢の日本人ですし詰めの無蓋車(屋根のない貨車)に乗せられました。
一昼夜走った頃、北に向かっていることに気がついた麻田父は、すぐに行動に出ます。深夜一人で窓から飛び降りたのです。
三日かけて徒歩でハルビンに戻り、紆余曲折の後日本に帰ったのは一年後のことでした。

お父様があの時列車から飛び降りてくださらなかったら、その後、麻田さんがお生まれになることがないことはもちろん、これから書くこと(先に書いたことも)の全てがなかったのです。

<関定子へのオファー>
話しは変わります。私の師匠・関定子は、ヨーロッパで6つのコンクールで入賞を果たし帰国したものの、ステージはほぼありませんでした。そのころのことを象徴的に表す言葉として
「ストーブの前に座り続けた」
これは今読んでもウルッとします。
そんな関定子にわずかなステージがかかります。そのステージとは・・・

無蓋車から飛び降り帰国したあの麻田父の経営されるロシアレストランでの、ロシア民謡のコンサートのゲスト出演でした。私はどういう経緯で関定子にお声がかかったのか知りませんが、関定子の声に魅せられた麻田父は、なんと子供の頃から好きだった山田耕筰のコンサートをもちかけたのです。「得意です」という関定子の返事を聞くと、麻田父は「ロシアレストランで山田耕筰なんて」と反対する息子を押し切って「山田耕筰の夕べ」を始めます。

また同じころ(?)関定子はそれまで歌ってきたイタリアオペラ等の他に、日本歌曲も堪能であることが、のちに関定子のマネージャーになる堀内さんの目に留まります。とにかく幸運の女神が微笑み始めたのです。

<山田耕筰100曲>
そして何回かの「山田耕筰の夕べ」ですっかり関定子にはまってしまった麻田父子は
「関定子に山田耕筰を100曲歌わせてCDを発売しよう」
という暴挙に出ます。CDを作ったこともない出版社なのに。





























書くのを忘れていました。麻田父の本業は「恵雅堂出版」の社長さんなのです。そしてこのCDを作ったこともない会社の出したCDは、
・第1集(42曲)《'94年日本レコードアカデミー賞受賞》
・第2集(58曲)《'93年レコード芸術誌特選盤》 
を受賞します。すごいことです。
麻田さんによりますと、
「すごいのは、無名のレーベルで受賞できた関定子と塚田佳男の力」とのことでした。
また、麻田さんによりますと
「麻田家の車の中ではある時期いつも関定子のCDがかかっていて、うちの子どもたちは日本一関定子を聞いている」
これもすごい。

<師匠・関定子と西野真理の出会い>
関定子関定子と、もう何度も登場していただいています。でも改めて私と師匠・関定子の出会いを書いておきましょう。

最初は福光声楽セミナー
私は関先生のクラスではありませんでした。それでも強烈な印象で高ぶった気持ちを抑えられず
「こんなすごい人を見た!」
と、夏休み明けの授業全てで(セミナーは夏休みに開催されていました)生徒に報告した覚えがあります。
その後も毎年参加しましたが、私は関先生のクラスになることはありませんでした。
ところが、富山県の小松さんが関先生を富山にお招きしてのレッスン会を組織して下さり、活動を開始。その会の初期に、たまたまレッスン枠が空いていて、誰か受講したい人はいないかと、やはり福光声楽セミナー受講者で金沢市在住の土屋さんにお声掛け。セミナーで仲良くなっていた私を思い出してくださった土屋さんは、「西野真理は関先生の教え方に合うのでは」と、私にお電話をくださいました。

一方西野真理はと言えば、以前に○○会にちょっとだけ所属し痛い目にあっており
「2度と○○会と名の付くものには所属しないでおこう」
と心に誓っていました。しかし、その時お電話をいただいた内容を私は勘違いして、このとき1度だけの特別なレッスン会だ思い、それならと参加。小松さんと土屋さん、そして勘違いのおかげで私は無事、関先生の教えを受けるルートに乗れたのです。

<コンクールへの挑戦でいよいよ出会いが!>
関先生のご指導を受け始めて、ちょっとはうまくなったかな?・・・いやいや、いい気になってはいけないとコンクールを受け始め、このブログの最初にあるように、他のコンクールも含めてどんどん落ちました。
そして40歳、麻田恭一さんとの出会いが訪れます。誰だか知らない、でも私の歌をとても評価してくださる方からのFAX。

その後、奥様の牧さんともお知り合いになりました。石川県で開催の美女コンにもご夫妻でおいでくださって、近所の民宿で夕ご飯をご一緒したりと、今もお付き合いが続いています。

<麻田恭一さんからのプレゼント>
ここまで書いてやっと「恩人」の意味をお判りいただけたかと思います。
その恩人の麻田さんから2026年1月12日メールをいただきました。

今、我家は住み慣れた2階から1階への引越しの準備で頭を悩ませています。
まず本の移動から手をつけたのですが、平井康三郎(5冊セット)、橋本国彦、團伊玖磨ほかのCD制作の際に買った楽譜が出てきました。
楽譜の読めない私にはまったく不要なので古本屋に売るか廃棄しようと思ったのですが、一応真理さんに聞いてみようと思った次第。
要るということでしたら宅急便でお送りしますので。

もちろんいただきます!

それが本日届きました。
豪雪の中、石川県へようこそ。
せっかくなので豪雪の中写真を撮ってみました。














以上、私のあまり正確ではないかもしれない今日のブログ、お楽しみいただけていると嬉しいです。(すでに麻田チェック済みなので大丈夫)

<追記>
麻田恭一さんは(も 麻田父)ロシア語習得者。
そうだ、リムスキー・コルサコフ作品の訳詩をしたこと、麻田さんにお伝えしておきましょう。私としてはとても無邪気な発想。
ところが、考えてみれば当然ですが、ちゃんとロシア語のお出来になる方には、ロシア語の子音たっぷりの発音を日本語にしてメロディーに乗せるのは、かなり抵抗がおありになると見受けられます。
私の訳詩に次のようなご意見をいただきました。

子音いっぱいのロシア語(英語でもイタリア語でもドイツ語でもそうですが)を母音主役の日本語で決まった音節の中に移し換えるのが土台無理な話であることをあらためて痛感します。
結論を言えば、原詩の気持ち、雰囲気を十分読み込んだ「翻案」しかないと思いますが、訳詩がすでに「翻案」気味だと、それをさらに「「翻案」すると原詩からかなり離れてしまう可能性があります。

たとえば川本さん訳の最初の2行ですが、
夜の闇の中で私が秘かに何を夢見ているか (→闇の中で夢見ることも) 
  昼の光のもといつも私が何を考えているか (→光の中思うことも)

1行目の最重要のイメージは原詩では「夜のしじま」「夜の静けさ」ですが、訳者は1行目を2行目の「昼の光」に寄せて「夜の闇」としています。
下記が私のフィルターを通してですが、原詩に近づけた訳です。(4行目以下は泥沼にはまりそうなのでやめます。中途はんぱですみません)

夜のしじまの中で密かに私が夢想していること
昼の光のもと絶えず私が思い巡らしていること
それは誰にも、お前にだって秘密なのだ、私の詩よ、

今後、ロシア詩の訳詞の際、ご要請があれば「行の中で何が一番大事なイメージか」の情報提供に協力しますので。

歌の師匠は関定子。
64歳を間近に、ロシア音楽の師匠を持つことになりました。
今後の西野真理ロシアもの訳詩にもご期待ください!


 

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西野真理の色々なお話

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