西野真理と吹奏楽:西尾正則先生古希コンサートに思う 2025年11月9日(日)

これを書き始めたのは、西尾正則先生古希コンサートの10分休憩中から。
(吹奏楽のコンサートで、西尾先生は主に指揮)
西尾正則先生のこと、知っているようでよく知りません。でも先にそれを書かないとおわかりいただけないと思うので、頑張って書いてみましょう。

西尾正則先生
多分1955年生まれ(今年が古希だから)。石川県穴水町出身。東京音楽大学器楽科トランペット専攻卒業。石川県の中学校音楽科教諭。教頭。吹奏楽部顧問として全国大会金賞を2回以上。
※全国大会の出場回数など、詳しくご存じの方、コメント欄で教えてください m(_ _)m

西尾正則先生がいらっしゃらなかったら、私は歌の活動を続けるどころか、大人になってから歌の勉強を再スタートさせることもできなかったかもしれません。
そのお話に敢えて題名をつけるとすれば
「教員生活37年、西野真理吹奏楽部顧問回避の歴史と西尾正則先生」
それでは はじまりはじまり。

山口県出身の西野真理、彼と結婚するために石川県の教員採用を受け、愛の力で一発合格。そしてその初任校が石川県河北郡津幡町立津幡中学校でした。当時津幡中学校は一学年10クラスのマンモス校で、しかも音楽が各学年週2回ある時代だったので、音楽科の先生は3人。転出されたお一人のかわりに入ったのが新採用の私。
私の前からいらしたお二人のうちのお一人が西尾正則先生でした。

ここ最近、教員の過重労働の源「教員の部活動からの解放」が急速に進んでいます。でも当時は部活動全盛時代。私はひょっとして吹奏楽の顧問をしなければならないのではないかと不安でした。吹奏楽の顧問の大変さが想像を超えることはわかっていたからです。
ところが、津幡中学校には、後に全国吹奏楽コンクール常連となる西尾正則先生と、さらにやはり吹奏楽大好きなもう一人の先生がいらして、私なんか全く必要なし。
まず吹奏楽との関わりの最初をクリアしたのです。

6年後、私は津幡中学校から内灘中学校へ異動。そこには数年前に西尾正則先生が先に異動されていて、何の心配もありません。また、そこにも吹奏楽大好きな先生がもう一人。
2校連続で吹奏楽部クリアです。

8年後に異動したのは、マンモス校解消のため津幡中学校から分離する形でできた新設校・津幡南中学校。こちらは、前の学校からの顧問の先生(英語)がそのままということで問題なし。

4年後、金沢市立北鳴中学校へ異動。ここではもう覚悟しないわけにいきませんでした。今までは音楽の先生が複数でしたが、ここでは私一人なのです。しかも以前の吹奏楽部顧問は音楽の先生。私がやるしかなさそうです。しかし、ここに同時に異動してこられたのが、西尾正則先生に追いつけ追い越せと河北郡で吹奏楽を頑張っていらした理科のM先生でした。私は恐る恐る
「ね~Mさん、吹奏楽持ってくれる?」
「僕にやらせてくれるの!」
3校目クリア。

ここまでくればもう「西野真理は吹奏楽部を持たない人」と認知されています。

3年後再度内灘中学校に異動。そこでは西尾正則先生たちが頑張っていらした頃の生徒がすでに教員になり、吹奏楽命で頑張ってくださっていて、全く問題なし。

10年後、金沢市立港中学校に異動。ここには、西尾正則先生の教え子で津幡中学校吹奏楽部西尾先生顧問時代に全国大会出場経験者のT先生(国語)が。北鳴中学校同様
「私がやっていいんですか!」
ありがとう!

ラスト3年は初任校の津幡中学校。ここでは私が行く前から吹奏楽大好きな国語のO先生、続いて私を追う形で港中からT先生。

このように最後の勤務校まで音楽科でなくても「吹奏楽大好き先生」と必ずご一緒するパターンが続き、私は無事歌の勉強を続け、コンクールを受けたりコンサートを開催したりしながら教員生活を終えることができたのです。
そんな最初の段階から後進の育成までの大恩人
西尾正則先生、古希、おめでとうございます!

今回のコンサートは演奏中の写真撮影OKでした

















↑西尾正則先生久しぶりのトランペット演奏
(指揮は教え子さん)



コンサート終了後ロビーで






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