先日のブログ(「春の横浜に歌う」その6 当日朝 2026年4月1日(水))に、本番の朝、声が出なかったことを書きました。そこでその関連の
「21世紀日本歌曲コンクール」
について書いた25年前・39歳の時のエッセイを転載いたします。(文体等少し手を入れました)
21世紀日本歌曲コンクール
私、西野真理は、2001年3月20日、東京錦糸町「すみだトリフォニ-ホ-ル小ホ-ル」で行われた『21世紀日本歌曲コンク-ル』において、1位をいただきました。応援ありがとうございました。
過去3年間、私はこの時期、群馬県榛名町で行われる「日本歌曲セミナ-」に参加していました。今年も参加したかったのですが、昨年参加した時点で事務局の方ら
「西野さん、3年連続で来てるから、来年1回休みね」
と言われてしまっていました。
この時期が空いてしまうのが何となく寂しいなと思っていたところへ目に入ったのがこのコンク-ルの案内。
<1次予選・テ-プ審査>
提出期間は1か月もあるのに、私は決意を鈍らせないために1日目に提出してしまいました。(山田耕筰作曲 曼珠沙華)ちょっと偉そうですが、まあ、テ-プ審査で落ちることはないだろうとは思っていました。
募集要項には
「3月10日までに本人に封書でお知らせします。電話での合否の問い合わせには応じられません」
との記述。
「10日までとあるのだから、まあ5日ころには来るだろう」
と、3月に入ったころから毎日毎日郵便受けを見ますが届きません。
「もしかして、落ちたのかなあ。ひょっとすると、テ-プが届いてないんじゃないかなあ」
などと、不安は増大。
3月9日。ついに我慢出来なくなった私は、コンク-ル事務局に電話。
「すみません、石川県の西野と申しますが、もう合否はお送りになったのでしょうか?」
「はい、昨日発送しましたので、明日には着くと思いますよ」
「あの、私のテ-プは受け付けて頂けているでしょうか?」
「石川県の西野さんですね。はい、お送りしましたので、お待ちください」
ああよかった。私はほっとして電話を切りました。
<3月10日・テープ審査結果>
家に帰ってみると、事務局から封書が届いていました。
封を切る前に私は冷静に判断。
「きっと合格している。なぜなら、封書が厚いからだ。落ちていたら落ちましたの紙だけだから、たくさん入っているはずがない。」
正解。
すぐにいつもお世話になっている旅行会社に電話をし、電車のチケットとホテルがセットになった安いプランの予約。
ここで一つ私にとって幸運なことがありました。
このコンク-ルは、予定では3月20日の11時から2次予選、3月21日の夜7時から本選の予定でしたが、20日に全て終えてしまうことに変更になっていました。
もし予定通りに行われれば、私は石川県を19日に出て、本選に残れば、21日の仕事をまず休み、この日のうちには帰れないので、その日も宿泊し、22日まで仕事を休むことに。ホテルに3泊もし、仕事を2日も休まなくてはなりません。
しかし、この変更のおかげで、宿泊1日、仕事は全く休まなくて済むことになりました。
<コンクールへ出発>
3月19日は3時間目まで授業をし、東京行きの電車に乗車。
コンク-ルのため東京へ行くと、ピアニストと合わせをする練習場が池袋にあるため、たいてい池袋に直行。上越新幹線に乗って池袋に行くには、上野まで行くよりも大宮で降りて埼京線に乗り換える方が早いということを知ってはいましたが、やったことがありませんでした。今回初めてやってみると、20分も早く到着。
まずホテルに荷物を置き、スタ-バックスでコ-ヒ-を買って練習場に行くと、ピアニストの香織ちゃんは先に来てくれていました。
2時間2100円で借りた、1.9畳の練習場で、初めて合わせる曲の最初で最後の練習。
明日、まず行われる2次予選は
・蝉
・黴(かび)
の2曲。黴は2人でのステ-ジ経験があるし、蝉はそれほどの難曲ではありません。しかし、本選の曲は、はっきり言って難曲で、合わせたことがないどころか、香織ちゃんは今回私のために初めて練習した曲である。無茶な話だと今になって思います。
(團伊玖磨作曲 ジャン・コクト-に依る八つの詩)
合わせは順調・・・には進まず、私は内心
「こりゃだめだ」
と思っていました。
しかし、彼女は努力し、次第に曲の形が整っていきました。
正直言って、コンク-ルなら1度の合わせで合ってしまうような一流のピアニストにお願いすべきかも知れない。でも私はお金もないし、なまいきな言い方だけれど、
「コンク-ルでもコンサ-トでも、ピアニストと歌い手に上下関係がなく、2人で音楽を作って行く」
ということ自体が好きなのです。
また、今回香織ちゃんのピアノは万全ではないけれど、こういう考え方も私を楽にしてくれる。
「落ちても私だけのせいじゃないも-ん」
合わせが終わると、いつもの台湾料理屋さんへ行き、体によさそうな食べ物を普段の夕食の1.5倍ほど食べました。
この時、2日ほど前から出始めた咳が断続的に出ていて、良くなるどころか回数は増えているように思わました。
<本番朝・3月20日>
起きるとすぐに声出し。
「.....出ない」
咳は一層激しくなっていました。
それでもしばらく低い声でそっと声帯を鳴らしていると少しずつ出てきて、何とか普通の声にまでもって行けそうな感じ。
ホテルはとても暑かったし、まだ行ったことのないホ-ルでもあるので、かなり早目に会場へ向かいました。
会場では、出場順の早い人のリハ-サルはもう始まっていました。私は待ち合わせをしている駅前のロッテリアで朝セットを食べながら香織ちゃんを待ち、いよいよ2人で会場の楽屋に入ると、もうほとんどの出場者が集合。
咳は激しさを増していて、私の願いは
「ステ-ジで声が出ること、咳がでないこと」
だけ。
<2次予選>
2次予選のステ-ジに上がりました。
こう見えても相当なあがり性の私が、ほぼ平常心。
咳が止まったからです。
1曲目が順調に終わろうとしたその時、最後のピアノの和音を、香織ちゃんは見事にはずしてしまいました。
私は
「落ちても私のせいじゃないも-ん」
これでますます私はリラックスし、2曲目はかなりいい感じで歌うことが出来ました。
ステ-ジを降りると香織ちゃんはかなり申しわけながっていましたが、私は本選に残る気満々。そして、お世話になっている塚田先生へすぐに送れるよう、結果発表前に文章をメールに打ち込み。
「21世紀日本歌曲コンク-ル、西野2次予選を通過し本選に進みます」
発表は予想通りで、すぐに作っておいた文章を送信。
発表から本選まで1時間ほどしかなく、練習することも出来ません。ちょっとおなかが空いたので、向かいのコンビニへ香織ちゃんと一緒に買い物に行き、大好きなシュ-クリ-ムと、ビタミンCのドリンク剤を買いました。
待ち時間にも咳は断続的に続き、当然願いは
「声が出ますように。咳が出ませんように」
<選曲>
さて、本選の曲を今回のものにしたのには少し訳があります。
1月に行われた日本歌曲の講座に参加した仲間でのコンサ-トで、私はこの曲を歌いましたが、とても悔いの残る出来でした。その直後は、もう2度とこの曲を人前で歌いたくないと思ったほど。しかし、コンク-ルの曲を提出する時になって
「今これを歌わなかったら、私は一生この曲にコンプレックスを持ったままになるかも知れない。コンク-ルを利用してリベンジ!」
という気持ちになり、覚悟を決めて曲目を提出したのです。
<本選>
出番が近づき、ステ-ジ袖へ行くと、係りの女性からドレスをとてもよいと褒めてもらって上機嫌。本選用のドレスは貸衣裳屋さんの放出品を扱うお店から5,000円で買ったもので、その事を話すと、買い物上手と関心してくれてもっと良い気持ちになりした。
しかし、咳は続きます。
ところが、ステ-ジへ出た途端、咳は止まりました。これだけで私は大満足。
最初の一声を出す時は、
「声が出るだろうか」
という少しの緊張があったものの、一度出てしまえばもう嬉しくて、あとは全く緊張することもなく、楽しく、やりたいように、でも、あまり冒険はしない歌い方で、今までの本番の中では最高の出来でステ-ジを降りました。
楽屋に戻ると、突然咳が襲ってきました。楽屋にいた人たちが心配して声を掛けてくれるほど。
<結果発表>
あとは発表を待つだけ。
お化粧を落とし、服を着替え、荷物をまとめて私と香織ちゃんは、舞台袖のドアのところで録音した、あまり録音状態の良くないMDを聴きました。音も小さくしか入っていないので楽屋から少し離れた廊下で。
聴いている途中に、舞台袖でドレスを褒めてくれた係りの人が通り掛かり
「発表されましたよ」
と教えてくださいました。
でも、その時は発表よりも本番の出来の方に興味がありました。というのも、今まで聴いた部分まで、かなりよく歌えていたので、どうしても最後まで聴きたくなってしまったから。そして、聴きながら私は香織ちゃんにこう言った。
「これ、かなりいい線行くよ。3位内には入るね」
こう言ったのにも少し理由があります。発表されましたと声を掛けてくれた係りの人が、私を見てなんとなく嬉しそうな顔だったから。うまく書けないけれど、落ちている人にああ言う声の掛け方はしないだろうというような感じの.....。
やっと聴き終わるころ、私はおなかが急に痛くなって、トイレに駆け込みました。
私がもたもたしている間に発表を見る人の
「わ-」「きゃ-」「うそ-」
のような場面は終わっており、ほとんど人がいなくなっていました。
やっとの事で発表の掲示板のある1階(ホ-ルは地下)への階段を上がろうとしていると、また、先程の係りの人に会った。
その人は
「もうご覧になりました?たしか、西..なんとかさんですよねえ。確か、いいところにあったと思いますよ」
と、早く見に行きなさいと言わんばかり。
私と香織ちゃんが顔を見合わせているところへ、さらに、上から65歳位のおじさんが降りてきて、私の顔を見るとニコニコして、
「西野さんだね。おめでとう。1位だよ」
私も香織ちゃんも目をぱちくりし、香織ちゃんの目には涙が浮かびはじめた。香織ちゃんはころびそうな靴をはいて階段を駆け上がっていった。
おじさんは審査委員長で、とても私を気に入ってくれた様子で、こんなことしゃべっていいのかなというようなことまでいろいろ教えてくれたり、褒めてくれたり。
・2次通過は3位だったが、本選は2位以下を大きく引き離してトップだった。
・2次のドレスと、本選のドレスがガラッと変わったことにまずひきつけられた。
・ステ-ジ全体として感じがとても良かった。
掲示板には
「第1位 西野真理」
と、本当に書かれていました。
会場はもう片付けに入っていて、私たちしか残っていないので慌てて楽屋に戻りましたが、その途中、香織ちゃんは泣いていました。本当は私が泣かなくてはいけないのでしょうが、何だか冷静で、香織ちゃんが泣くのを見てますます楽しい気分になってしまい、それを聞いて香織ちゃんは怒っていました。荷物をもって掲示板のところへ戻るとさっきのおじさんがいらしたので、掲示板の前で一緒に写真撮影。
おじさんは、ぜひ石川でコンサ-トをやりましょうというようなことを言ってくれて、受け付けのお姉さんからは咳き込んでいる私にチョコレ-トまでもらって、会場をあとにしました。
<ささやかな祝賀会とお祝いメール>
駅近くの居酒屋で、ささやかなお祝いをしながらメールで塚田先生に報告し、身内や、職場の友人の諸江さん、本山さん、学校長、教頭、にも連絡。
18:27。携帯にメ-ル。なんと塚田先生からの返信です。
「今、ゆうすげに到着してメ-ルをみました。とにかくおめでとう!本当によかった、よかった!」
(注・ゆうすげは、榛名日本歌曲セミナ-中の宿泊所で、ワカサギ釣で有名な榛名湖畔にあり、この時期はまだ湖が凍っている)
うれしいのはもちろんですが、あのお忙しい塚田先生が、私のためにメ-ルを入れて下さったということ自体に驚き、感激。
このメ-ルは、永久保存用に保護をかけました。
香織ちゃんと別れ、東京駅の地下で疲れて座っていると携帯に電話。今度は関先生から。塚田先生が伝言して下さったのでしょう。
先生もとても喜んでくださり、また、セミナ-でいつもお世話になる堀内さんも電話に出て、とても喜んでいると言ってくださいました。それほど大きなコンク-ルでもないのに、こうして電話をくださり、喜びを伝えてくださることに感動して、目頭が暑くなりました。
新幹線ホ-ムに立っている時に学校長から、新幹線に乗り込んだところで、榛名のセミナ-に参加中の友人から電話をもらい、またまたじんときました。身内、職場の友人からも続々おめでとうのメール。
深夜、石川県の自宅にたどり着くと、関先生、塚田先生、堀内さんに、お礼状をFAX、フランス物を教えて下さっている佐伯先生と、とても感じの良い運営をしていただいたコンク-ルの事務局へ礼状を書いた。
咳はこれでもかと思うほどひどくなって、なかなか寝ることが出来ませんでした。
<翌日>
朝のホ-ムル-ムのため教室に入ると、一斉にクラッカ-がなりました。受賞を知らせた諸江さんが、私が担任している2年5組の生徒にクラッカ-を渡してくれていたのです。
感動。
2年5組のみんな、津幡南中学校の職員生徒のみなさん本当にありがとう。こんな平和なクラス、学校で過ごさせてもらったおかげです。
<翌々日>
咳のため、ついに声が出なくなってしまい、この日の授業は筆談と、ひそひそ話のような声で何とか乗り越えました。
痰に血が絡むようになっていました。
私がひそひそ喋るものだから、職員室中ひそひそ喋り、生徒もいつになく静か。
さあ、これからも守りに入ることなく、また敗退記録を一から作り直すことにしましょう。
<久しぶりに過去のエッセイを読んだ感想>
・25年前は「テープ」審査だった
・25年前は「MD」を使っていた
・25年前には北陸新幹線がなかった(新幹線は上越まで。北陸本線に乗り換えていた)
・25年前はスマホがなく、携帯電話でメールを打っていた(Iモードって名前だったかな)
・25年前も今も咳は怖い
・25年前も今も、私は精神的にあんまり変わっていない








