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東海林さだおさん死去・88歳 2026年4月15日(水)

「東海林さだおさん死去 」
たった今Yahooニュースで知りました。お亡くなりになったのは4月5日。88歳、心不全だそうです。

<Yahooニュースより>
「モヤシ」「タクアン」「のり弁」などといった庶民的な食べ物に焦点をあて、個人的なこだわりや楽しみ方をユーモアたっぷりにつづったエッセーでも長年活躍した。1987年、週刊朝日で「あれも食いたい これも食いたい」と題した漫画入りの連載をスタート。同誌が休刊(2023年)したのち、24年1月から朝日新聞週末版beで月2回連載した。連載をまとめた単行本「丸かじり」シリーズはこれまでに47巻が刊行されている。最終巻「アンコの丸かじり」は5月20日に朝日新聞出版から発売予定。

東海林さだおさんは、
「私にも文章が書けるかもしれない」
と思わせてくださった人の一人です。(もう一人はさくらももこさん)。何かしらで東海林さんの文章を初めて読んだとき
「こんな書き方ありなんだ!これならできるかも」

私は小学校の時から文章を書くのが苦手。それに「面倒」が加わって、文章を書くことは苦痛でしかありませんでした。学校で提出した作文に

















のハンコなど、押してもらったことがありません。
中学、高校、大学になってもそれは変わりませんでした。
しかし、学校の先生になって間もなく出会ったのが東海林さんの文章(文体?)
例えば

~文春文庫「誰だってずるしたい」
    見るもの聞くもの、腹の立つことばかり  より~

(前略)
だが、こういうふうに、人間を相手に叱っているうちはまだ症状が軽い。
そのうち、犬や猫とけんかするようになる。
通りがかりに犬に吠えられたと言って、その犬を真剣に、条理を尽くして叱っている老人を見たことがある。
犬と老人は意見がかみ合わず~
(後略)

このようにいちいち改行。
いいです!
ドンドンページが進みます。
思いついたことをどんどん書く。
いいです。
あんまり考えなくても、思いついたらそのまま文章にすればいいんですから。(…と言ってただ書いても、東海林さんのようにはなりません)
私が学校で何かと文章を書く場面に遭遇しても嫌にならなかったり、過去にエッセイ集を17冊も出版したり(押し入れ在庫の山)、今日現在ブログを1483本も投稿していたり、彼が町会長をしているのをいいことに、せっせと本町通信を月2回も書けるのは、東海林さんのおかげです。

東海林さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


幻冬舎ルネッサンス社さんからの営業メール再び 2025年9月17日(木)

幻冬舎ルネッサンス社さんから、以前何度かメールを、そしてお電話をいだいたたことがあります。確かお電話はコロナでお部屋監禁状態の時だったような。これはブログに書いているはずなので、後でリンク貼っておきます。

そして今日、9月17日、見ていないメールに気づきました。9月11日に送信されています。

平素より大変お世話になっております。
幻冬舎ルネッサンスのNと申します。

いつも弊社からのご案内に目を留めていただき、誠にありがとうございます。
心より嬉しく感じております。

本日は、ご登録者様が以前他社様よりご著書を刊行されたと伺い、
改訂版出版のご提案を差し上げたく、メールをお送りいたしました。

私たちは、著者様が心から納得できる出版社をお選びいただけるよう、丁寧にサポートをさせていただいております。
必要な資料やご不明な点などございましたら、どうぞお気軽にお申し付けください。

改訂版をご出版いただくことで、以下のようなメリットがございます。

――――――――――――――――――――――
・最新情報の追加ができる
・内容の改善、ブラッシュアップが可能
・装丁やレイアウトのリニューアル
・新たな読者層へのアプローチ
・誤字脱字などの修正
――――――――――――――――――――――

出版体験は、著者様一人ひとり異なるものです。
だからこそ、ご登録者様とご一緒に特別な一冊をつくれましたら、大変光栄に存じます。

たくさんの想いが込められたご著書を、より多くの方にお届けするためにも、ぜひ一度、ご検討いただけましたら幸いです。

改めて私のほうからお電話を差し上げる予定ですが、
ご不明な点やご相談などがございましたら、いつでもお気軽にご連絡くださいませ。
もちろん、新作のご相談も大歓迎です。
お話しできることを楽しみにしております。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


嬉しいな!お話しするのを楽しみにしてくださっているようです。・・・しかし、前途有望な若者に、出版する気のないおしゃべり西野真理の相手をさせるのはあまりに可哀想。ここははっきりお返事差し上げた方がいいでしょう。

幻冬舎ルネッサンス社 N様

ご連絡ありがとうございます。
かつて自費出版(自分で印刷して、制本屋さんで製本)した学級文集のような冊子について、
どのようにお話がN様のお耳に入ったのか不明ですが
現在、出版の予定はございません。 仮に出版しても売れるはずがありません。
なにしろ現在押し入れは過去のエッセイ集でいっぱい。できればもらっていただきたいくらいです。(パート1~パート17)
でも実は、出版したいものがないわけではありません。
それは外国歌曲・オペラの日本語歌唱用の訳詩リズム譜です。
現在291曲あります。
しかしこれらは、音楽関係出版社に全く相手にされず、仕方ないので手売りしています。
ブログはよく書いていますので、お読みいただけると嬉しいです。

出版社の方からたとえ営業メールでもいただけたのは、ちょっぴり嬉しいものがあります。
N様の今後の活躍をお祈りしております。
西野真理


川北小学校研修会講師当日 2025年6月26日(木)

このブログはこちらをお読みになった前提で進めます。

<朝のひらめき>
さあいよいよ当日です。
13時ちょっと前に出発すれば十分間に合いますから、のんびり準備できます。しかし実際は5時に目覚めソワソワ。そのうち、ちょっとしたひらめきがありました。
「歌の会『Sing幾多郎』には参加者なし。コンサートのお客様も多くて10人強。FMは何人お聴きくださっているかわからない。YouTubeだって登録者2000人に届かない・・・頭ではわかっていたことだけれど『自分がしたいことじゃなくて、相手が必要としていることをする』っていう発想じゃなきゃダメ。今回のこのオファーは、ダイレクト葉書を出しただけで強力に売り込んだわけではないのにお声掛けいただいた・・・ということは、私の必要とされているのは、こういうところなんじゃないかな」
思ったらすぐ行動。そこでできたのがこれ。
↓対象を小中学校の先生に絞ったチラシです。
(※当日お配りしたものを、帰宅後何度も練り直しています)





















コンサート活動等、自分が主体となって行うことと同じくらいやりたいと思っていた
「今まで私に伝えていただいたことを、私が次の人たちに伝える」
ということを整理できました。

<氷室饅頭>
結局我慢できなくなって、12時半前に家を出ました。出るときに
「授業後でお腹もすいているし、自分でも普段から『食べ物をくれる人はいい人』と思ってるんだから、皆さんと一緒に食べるお菓子買っていきましょう」
と、いつものお菓子屋さんへ行くと、定休日。仕方ありません。でももう1件おいしいお菓子屋さんがありますからそちらへ。
「ずんだ餡氷室饅頭」
を買って、さあ出発。

氷室饅頭(ひむろまんじゅう)とは?(お菓子の森八ホームページより)
加賀藩政期、前田家では旧暦6月1日に山中の氷室を開き、冬の間貯えておいた雪氷を遠く江戸将軍家に献上していました。長い道中、無事に氷が届けられるよう、庶民の間では麦饅頭を神仏に奉納し、その後、無病息災を祈願して食された風習が氷室饅頭として今日まで伝えられました。現代では氷室が開かれた7月1日に夏の暑さを乗り切り健康を願って食される氷室饅頭は、娘の嫁ぎ先に持参され、親類縁者・近隣にも配られるという慣習を残し夏の風物詩として加賀金沢の街に伝え続けられています。

<道の駅>
当然ですが早く着きすぎました。
2.5キロ先に道の駅があるという看板を発見し、そこでしばらくうろうろして、お野菜を買いました。

<S校長先生>
先日から30年以上ぶりくらいに電話やラインで連絡をとり、すっかり以前に戻った気になっていました。でも、実際にはお互いお顔を合わせてはいないので、ちょっと緊張します。

到着しました。
学校の玄関でお出迎えくださった、昔のままかわいいS校長先生を見てうれしくなりました。

<6年生の授業>
小学生の授業をするのは、え~っと・・・41年ぶりです!大学を卒業して、山口県の岐山小学校で1年間の通年講師(音楽専科)をして以来。
今回お引き受けして、私はすぐに次のように考えました。
「この子たちを教えるのはこの1回限りなんだから、オール西野真理ペースで、伝えたいことをこれでもかと詰め込もう」

~基本、自分がかつて授業をしてきたスタイル~
・教室の座席はピアノを黒板の前の中央に置き、机なし、椅子2列半円形に
・チャイムより前に教室に行き、生徒が好きそうな曲をピアノで弾きながら待つ
・チャイムが鳴ったらすぐに校歌の前奏を弾き、有無を言わさず歌わせる
・ある程度声が出てきた段階で、簡単に自己紹介
・その後は子どもたちの様子を見ながら、教えられそうなことをできる限り教える
 (先生方から事前に「※こんなことを」と言われていたことを含めながら)
 ①ビブラート
 ②言葉のさばきかた
 ③声帯の仕組み
 ④和音のこと※
 ⑤変声期の児童に配慮した授業の進め方※
    ⑥ちょっとした楽典(今回はト音記号)
・テンポよく、生徒を休ませない

久しぶりのわりによくできました🌸(自己評価)

<ミニコンサート>
1曲歌っただけですけどね。
S校長先生はピアノ科の方。事前打ち合わせで
「小学校6年生の教科書に載っている『いのちの歌』」
に決定。

演奏前に、拍手の仕方を指導しました。
「後奏が終わって、歌手が体勢を崩したら拍手するのよ」
こういう指導は必要だと思います。
こういう指導をちゃんとしないから、これ見よがしにフライング拍手する大人が存在してしまうのです。
S校長先生との息もぴったりで無事終了。

<先生方との研修会>
まず氷室饅頭を食べましょう。
若いころ、おばさんたちが何かと食べ物を配るのを見て
「どうしておばさんたちって、いつも食べ物配るんだろう」
と思っていました。私も立派なおばさんになったようです。

7名の熱心な先生方との質疑応答やミニレッスン。
最後に、私のチラシや、音楽教育界について相当に毒づいた内容を含むエッセイ集等をお渡ししました。この「猛毒エッセイ」さすがに現在もブログには掲載していません。でも、今決めました。65歳になったらブログに公開します。

お配りした中で今後一番先生方のお役に立つのは堀裕嗣さんに関するレジメでしょう。
                        ↑リンク貼ってあります

<帰り道>
帰りの車の中、なんとなく勤務帰りのような懐かしい気持になりました。



高瀬洋さんを偲んで 2025年6月12日(木)

いつもコンサートにご来場くださる高瀬良洋さんの息子さん・洋さんが55歳の生涯を終えられました。











高瀬さんとお知り合いになった経緯に関しては、大変話が長く、また、珍しくまじめな部分も多くなりますが、ぜひ最後までお付き合いくださいませ。

まずは、過去のエッセイ(2008年)を貼り付けます。(2作のエッセイをまとめました。現在のブログとは文体が違います)

ダメでもともと。突撃精神瞬間着火

2008年6月のある朝、職場で隣の席に座っている理科教師のMちゃんがこんなことを話してくれた。
「真理ちゃんならひょっとして興味があるかな~と思って言ってみるんだけど、今度金沢で『クリスマスレクチャー』って言うのがあるけど行ってみない?・・・あっ、でも、行きたいからって申し込んでも、ものすごく応募者が多いと思うから、行けるとは限らな・・・・・・」
「?クリスマス・・・・」
私が
「サンタさんのお話でもあるのかな」
と思っていると、その思いを見透かしたようにさらにMちゃんは続けた。
「これ、かなり前からイギリスでやってるレクチャーで、私前から行ってみたかったんだけどね。それって、世界的な科学者が楽しく科学のお話をしてくださる、ま、とにかくすごいの。それを今年日本でも・・・もちろんイギリスではクリスマスだけど、日本では夏やることになって、1回目は東京、で、2回目が金沢!」
 
私は、判る判らないは抜きにして(本当は抜かないほうがいいけど)自分の知らない世界のことを聞くのが大好き!それに「世界的な!」なんて言葉がついたりしようものなら、もうドキドキワクワク。
さすがMチャンは私のそういうところを見抜いており、私に声をかけてくれたわけだ。

が、話しているうちにふと気づいた。申し込んでも行けるかどうか判らないし、私が聞いてそのレクチャーが判るかどうかもわからない・・・・。
だったら☆
私の突撃精神に火がついた。
「私、そのレクチャーの休憩時間とか前座とかで歌わせてもらえないかな~?」
Mちゃん、あまりの話の飛躍にびっくり。
「・・・・・あ~・・それ・・・なんていうか、・・・ちょっと無理じゃない・・・・・」
遠慮しがちにはっきり言われたが、私はもうすっかりその気になっていた。そして
「主催の読売新聞に『歌わせてくださいませんか』ってメールしよ~っと!」
あきれてものが言えないという雰囲気をかもし出しているMちゃんを無視して、私はさっさと次のようなメールを読売新聞に送信した。

    ✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉
<読売新聞社様>
いつもご苦労様です。
さて、以下の情報を拝見しました。
<8月1日、2日 石川・金沢工業大学多目的ホール
各日午前11時~午後2時半
【講 師】 マーカス・デュ・ソートイ氏(オックスフォード大教授)
「数のミステリー」
 世界的に有名な数学者が、数の不思議や面白さを、実験やデモンストレーションを交えて解き明かします。参加無料>

現在ソプラノ歌手として様々なところで歌わせていただいていますが
ぜひこのような場でほんの数分でも前座、又は休憩時間の余興として
歌わせていただければと思いメールさせていただいた次第です。
興味をお持ちいただけましたら、ご連絡をお願いいたします。
<西野真理プロフィール>
西野真理 (歌) 武蔵野音楽大学声楽科卒業
‘01年21世紀日本歌曲コンクール第1位
‘02年奏楽堂日本歌曲コンクール入選
‘03年奏楽堂日本歌曲コンクール第2位
‘03年以来、東京・音楽の友ホール「日本歌曲シリーズ」に出演
‘06年榛名日本歌曲セミナー演奏助手
現在までに「あまんじゃくとうりこ姫」「アイーダ」「魔笛」「ちゃんちき」「フィガロの結婚」等のオペラに出演
‘05、‘07には石川県立音楽堂コンサートホールで0歳児からのコンサートに司会兼歌手として出演し好評を博す。かほく市在住
✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉✉

送信してしまうと、もうすることなんてなにもないわけで、そのことはあっという間に私の頭から消えてしまった。

6月26日・火曜日の夕方電話が鳴った。平日夕方の電話は怪しい。
「マンションを買わないか」
「壁を塗らないか」
今日のは
「読売新聞の・・・」
「うちは、2紙取ってるからいらないよ~」
・・・・・・・・・・・・・・と言わなくて良かった!!!!!
声の主は続けた。
「支局長のヤスエと申します。西野真理さんでいらっしゃいますか?先日はメールをいただきありがとうございました」
「えっ!あ、ありがとうございます!」
ヤスエさんからの電話の内容はおよそ次のようなものだった。

大変面白そうな申し出で、こちらも大変興味がある。しかし『クリスマスレクチャー』というのは、それこそノーベル賞級の学者さんがいらっしゃる会で、私が勝手にいろいろ決めるわけに行かない。こちらの担当教授の○○さんと今度相談してみようと思うが、歌ってもらうことになるかどうか、現段階で約束はできない。それでも了解してもらえるようなら、日程を空けておいてほしい。もし歌っていただけなくてもご希望があれば西野さんに席をご用意してもよい。ただし、立ち見になるかも。また、これとは別に読売新聞社ではほぼ毎月1回、文化活動として講演会などをしている。そういう会に歌っていただくことは可能だろうか?
 
「もちろんです!日程も空けますし、お返事も前日までならOKです!」

<イベント申し込みからの展開>
当然歌わせてもらうことはできなかったが、読売新聞北陸支局長・安江さんが私に興味を持ってくださり、その後開催された筋ジストロフィー患者・四方健二さんの自作詩朗読会で歌わないかと声をかけてくださった。
その朗読会で歌わせていただいた後、ご来場中の同じ筋ジストロフィー患者である息子さんをお持ちの高瀬さんから
「医王病院でも歌ってもらえないだろうか」
というお手紙をいただいた。

そのお手紙をいただいて1週間ほどのちの富山レッスンの帰り、金沢森本インターから一般道へ降りようとしたとき、その正面に医王病院を発見。つい、いつもの突撃ボランティア精神が沸き起こり病院を訪問することにした。

医王病院にて

<医王病院へ>
上記のような経緯で何のアポイントもなく医王病院へ足を踏み入れたが、病院はいつも突撃ボランティアを行っている老人ホームのように簡単に
「さあどうぞ歌ってください」
とはいかなかった。
覚悟はしていたのでそのまま帰ろうとしたが、一応高瀬さんの名前を出してみると少し様子が変わり、高瀬さんに電話で確認していただけることになった。

看護師さんが高瀬さんの携帯に電話をされると、高瀬さんはつい30分ほど前にこの病院を出て家へ向かわれたところで、私が来ていると知ると、
「すぐ戻るから待っていて欲しい」
とのこと。
高瀬さんが電話で私のことをどんなふうにお話くださったかは不明だが、この後すぐに歌わせていただけることになり、あちこちの病室を訪ねて歌いつつ高瀬さんをお待ちすることになった。

<病室の様子>
詩の朗読会でお会いした四方さんの様子から、筋ジストロフィーの患者さんのことを知っているつもりでいたが、一人にお会いするのと、たくさんの患者さんを一度に目にするのは全く感じが違っていた。
一人ひとりの心拍を表示する機械、呼吸をサポートする機械、痰を吸い出す機械・・・その他見たことのないたくさんの機械がところ狭しと並び
「私がつまづいて機械を倒したりコードを踏んだりしたら命にかかわるかもしれない!」
とはじめのうちとても緊張した。













<高瀬さんのお話>
しばらく歌っているうちに高瀬さんが到着。
その後は高瀬さんのご案内であちこちの病室を回ることになったが、その間に高瀬さんから次のようなことをお聞きした。

・・・何十年か前だと、筋ジス患者は20歳位くらいまでしか生きられなかった。体中の筋肉が次第に衰え、20歳くらいには呼吸するための筋肉が動かなくなるから。しかし、人工呼吸器(名前は確かではない)が開発され、生きられるようになった。自分の息子も小さいころは普通に歩いていたのがだんだん歩けなくなり、車椅子になり、人工呼吸器になり。私自身も絶望したり、それはそれは色々あって・・・・

高瀬さんの話しぶりは本当にあっけらかんとして、いわゆる
「達観した」
という表現がぴったりだった。
たくさんのことを乗り越えていらしたんだなあと思った。

<想像を超えた病室>
「西野さん、一人でこういうところに入ることはないだろうから、ここでも歌うといいよ」
と高瀬さんに案内されたのは、ベビーベッドのたくさん並んだ小児病棟。
そのベッドの間を縫うように歌いつつ見た患者さんたちの姿は想像を超えたものだった。
それも、一人ひとり状態が違っていた。
その様子の違いをどこまで書いていいのか、また書いたとしてもどこまで正確に描写できるか、こうして書きながらずっと迷っている。
一目でわかることは、体の大きさ。
体全体の大きさも様々なら、体の部分的な大きさや、おそらく動かすことはできないであろうと思われる手足、いや、手足に限ったことではない、一生ここから、このベッドから出ることはできないだろうと想像される姿に、私の心臓の鼓動は一気に速くなった。
それでも一生懸命歌っていると高瀬さんが
「あ~この子喜んでる!」
残念ながら私の目にはその患者さんの感情は全く伝わってこなかったが、そういわれたことは私をとても安心させてくれ、歌い続ける力になった。

<衝撃の事実>
私はその後、この日の出来事を生徒や友人に話した。できるだけ正直に正確に。
しかし、この
「小児病棟」
という表現が大変な思い違いであったことを、2度目にボランティアに行ったとき知ることになった。

2度目に伺ったときも高瀬さんに案内されて病棟を回ったが、以前から手狭になった医王病院の後に新しい病棟が建設されていて、どの病棟も新しい建物に移ったり、今まで使っていた病室を広く使えるようになったりしていた。

新しくなった病棟を回りながら高瀬さんが私の勘違いを見透かすように
こう言われた。
「西野さん、あの子たち小さいから子供だと思ったかもしれないけど、みんな20歳過ぎてるんだよ」
「え!・・・・・・・・」
小児病棟で見たこととして生徒や友人に語ってきたのに、あの患者さんたちはみな、成人した方だったのだ。
この事実を知ったことがここ数年で私が受けた衝撃の中で一番大きなものだったように思
う。

ここからが2025年6月12日のブログです

横浜2泊3日の帰途の車内、高瀬精治さんのfacebookへの投稿に気づきました。(精治さんは良洋さんの息子さんです。実名や投稿記事・写真の使用に関してはご快諾いただきました)

大好きな、あんちゃん(兄)が令和7年6月7日19時30頃天国に旅立ちました🪽
55歳でした!
あんちゃんは、前にも書いたと思いますが先天性の筋ジストロフィーという病気で20歳ごろ自力で呼吸ができなくなり喉を切開して呼吸器を取り付けました!
それから35年間病院生活をしていました。
周りの環境も良かったのかこの歳までこの病気で生きた方はいないそうです。
とにかく映画が大好きで亡くなる前日もゴジラの映画(ビデオ)を見てたそうです
^ ^
自分が病院に面会に行った時も必ず何かしらの映画を一緒に見るのが楽しみでした。
ミッションインポッシブルの最新ファイナルレコリングもDVD📀を買って一緒見ようと思ってましたが、とても残念です😢
またあんちゃんは、呼吸器をつける前はケンタッキーフライドチキン🍗が大好きでよく食べていましたが、呼吸器をつけてから一度食べたことはあるんですが、喉に詰まり苦しくなってそこから食べ物一度も口にすることはありませんでした。
最後に実家に帰り食べさせてあげることが出来たので、あんちゃんも喜んでいることと思います^ ^
それからあんちゃんの人生の大半を一緒過ごしてくださった横川先生も前日にあんちゃんの顔を見に来ていただきありがとうございます。
横川先生が来てくれてあんちゃんも嬉しかったと思います、一緒にいた時の笑顔が浮かびました^ ^
あんちゃんは、いろんな方にサポートしていただき55歳まで生きることが出来たと思います。
医王病院の先生、看護師の方々、これまでに関わってくださった全ての方々に感謝を申し上げます。
ありがとうございました🙇‍♂️
あんちゃんは幸せものでした^ ^
天国から笑顔で見てると思います。
あんちゃんまたね👋

SAに立ち寄った時、高瀬さんにお電話しました。
先に貼り付けたエッセイにもあったように、高瀬さんは達観した方。とても明るくお話しくださったことで、私はとてもほっとしました。
「明日お宅へお伺いしていいですか?」
ということで、本日お伺いしました。

いつも通り、明るく元気な高瀬さんではありますが、お仏壇横には洋さんの写真。その前で
医王病院でのボランティアコンサートのときには聞けなかった詳しいお話を伺うことができました。
難しくて1度では覚えきれなかったので、順不同、箇条書きでご勘弁ください。

・洋さんは小学生で発症、20代前半で一度呼吸が止まったこともあったが、ちょうど人工呼吸器が開発され、それによって延命が可能になった
・意思の疎通は、口の動きやまばたき
・寝返りも打てない、ちょっと痒くても掻くこともできないのに、洋さんは「つらい」ということはなかった
・筋ジストロフィーの専門病院は北陸には石川県の医王病院だけ、ここから一番近いのは滋賀県
・この病気だといろんな薬が使えない。これをこちらに使えば、あちらに悪い
・洋さんは何度か呼吸が止まったことがあったが、そのたび自力で呼吸を戻した
・普通の体力の人なら呼吸が止まった時胸部圧迫という方法もあるが、そんなこと絶対できない
・筋ジストロフィーとよく似た病気でALSというのもある
 ※これについては高瀬さんもよくわからないとおっしゃったので、調べてみました。
観点ALS筋ジストロフィー
原因    神経      筋肉
発症年齢   成人        小児が多い
進行   急速     緩やか(タイプによる)
知能・感覚   保たれる     多くは保たれる
治療   進行遅延薬あり   対症療法中心、遺伝子治療研究中

洋さんのご冥福と、難病の治療法が見つかることを心よりお祈りしてこのブログを終わります。


50~51歳で声帯を痛めた時のお話(過去のエッセイより)その3 2025年3月27日(木)

このブログは
50~51歳で声帯を痛めた時のお話(過去のエッセイより)その2 2025年3月27日(木)
をおよみになってからどうぞ。

「絶不調からの脱出?」総集編
     (2013年3月頃・51歳のエッセイ)

<はじめに> 

「不調など自分にはありえない」という健康を過信した西野真理に、声帯のトラブルという天罰が下った50歳半ばから51歳初頭。

その過信とちょっぴりの絶望との合間に、いくつかのそれに関するエッセイも書いた。が、今こうして不調の時を過ぎて冷静に見えてくることも多く、これを書き残すことは今後の自分のためであることはもちろん、「健康過信中」の多くの皆様にも有効かと考え、極力正直に一生懸命思い出して書いてみることにした。

<最初の警告>
「今にして思えば」の一言に尽きるが、あの時のあれは間違いなく今回のそれだった。そう、エッセイPART8に書き残している

「ドキュメンタリー 病休初体験」

西野真理45歳の6月に起きた一件・・・・

その1週間前あたりから耳が妙で、それを放っておいた木曜日の午後、学校で調子が悪くなり、保健室で吐き、病院へ運ばれで点滴を受けた。翌日念のため大きな病院へ行ったが、その時にはすっかり良くなっていて、「な~んだ」って思っておしまい。

今になって改めてエッセイを読み返してみると、たしかにドキュメンタリー風に書かれていて、書かれているそのことは正しいが、実は自分にとって不利(?)っていうか、自分が健康じゃないって思われてしまいそうなことは書かないようにしようとしていることが思い出される。

それは、その時のエッセイには書かなかった、点滴を受けた病院でドクターから言われた一言。
「過労じゃありませんか?」
その時私はその言葉をきっぱりと否定したのだった。
「自分に過労などありえない」
という思い込みと自信から。

「間違いなく『過労』である」
と今なら書ける。
それも喉の不調を伴った過労。

ちょうどそのころ、すべてのクラスの音楽の授業で歌のテストを行なっていた。それも、デュエットテスト。私がピアノを弾きながら、生徒に主旋律を歌わせながら、私が副旋律を一緒に歌いながら採点するという方式。およそ450人の生徒とそれをやった。
しかもその時ちょっと風邪気味だった。
さらにそのころ、総合学習の「職場体験学習」のために、生徒の体験職場決め集会で、くじを引いた順番にすべての生徒の希望場所をくじ順に決めていく係をやった。300人強の生徒に。
これは倒れる。
でも私は45歳の西野真理を過信していた。
しかも幸か不幸か翌日には回復してしまい(回復したように見えた)、そのことを大きく捉えようとはしなかった。

<47歳の警告>
一般には40肩とか50肩とか言われる症状で、加茂整形外科の加茂先生の「筋痛症」という考えを知ってからの私なら、これは筋痛症で加茂先生に治療していただけばすぐ治るとわかるのだが、この頃は知らなかったので仕方がない。
それにしても、やはり一般に言われるように、筋肉にガタが来る年頃になっているという警告と受け取ればよかった。

が、またしても「過労」「加齢」を受け止めたくない私は
「ピアノの弾き方が悪い」
「指揮法の授業が続いた」
「庭仕事のしすぎ」
と言い訳をしていた。
つまり、腕や肩が痛いということは、体中の筋肉はどこだってそれなりに平等に疲れているはずだ。
特に喉。
だがこの頃、自分の体の中でも特に喉に関して私は過信中の過信をしていた。喉に申し分けない。

<不調中の無理>
50歳の夏、特に調子が良かった。
その調子に乗っかっていた9月の終わり、ちょっと風邪をひいた。
これがすべての始まり。
この頃からオペラ「天狗と彦市」の練習が始まり、ちょっとしたコンサートを頼まれ、合唱コンクールの時期でもあり喉を休ませることができなかった。
いや、できなくない。
今ならそう言える。
調子が悪ければ練習は程々で過ごして本番に備えればいいし、授業も先生が必ず歌わなければできないというものではないのだ。
でも、私にはそんな智恵がなかった。
さらにその後、またちょっと歌わなければならないことがあって、喉は悲鳴を上げたのだった。
状態としては「声帯結節」の初期。   
声を出すと閉じる声帯の無理な使い方によって、手に例えると「ペンだこ」みたいなものが声帯左右対象にできたのが結節。私のは、これが片方だけ。
小さな声帯に小さな突起が出来ればちゃんと声帯が閉じなくなって、ちゃんとした声が出なくなる。
治療法はひとつ。
声を出さない。
でも本番はある。
だから無理して出す。
ますます結節はひどくなる。
ストレスが溜まる。
中心性漿液性脈絡網膜症にかかる。(別記。エッセイPART11)
眼科でビタミン剤を大量にいただく。この薬を声帯のためと思って飲む。

<悪あがき>
・漢方薬を飲んでみる・・・「響声破笛丸料」ちょっと効果あり。結節が治るわけではない  が喉は楽になる。
・また漢方薬を飲んでみる・・・「麦門冬湯」う~ん。
・酵素風呂に行ってみる。1回きり。(別記エッセイ。エッセイPART11)
・マスクをする・・・人と喋らない効果はある。
・喉に蒸気をあてる・・・効果が本当にあるかどうかわからないが、いい気
がする。しかも、購入した機械の本職は美顔器。
これは現在も使っている。
・京大医学部耳鼻咽喉科音声外来予約・・・金沢医科大学で紹介状をいただき、4月18日に予約を入れ、電車のチケットもとってあったが、結果的にキャンセル。予約して安心したという精神的効果はあり。後述参照。
・歌の練習・・・「これは不調じゃなくて練習不足で歌えないんだ」と逆切れ気味の発想でお正月開けに練習を再開。これは最低!絶対やってはいけない。これで回復が2週間遅れた…と思う。

<不調期の本番>
①不調初期
・9月~10月オペラ「天狗と彦市」練習と本番。なんとかやり過ごす。
②不調中期
・9月29日「野々市チャリティコンサート」。高い「ラ」は、苦しいが出る。
・10月19日オペラ「雪女」ナレーター 喋り声ガサガサ。低めの声設定。
③絶不調期
・11月22日 「レストラン チャリティコンサート」。アカペラだったため、
音をかなり下げ、トークも低めの声でなんとか◯
・12月下旬 生徒を連れて老人ホームを慰問。ドレスを着てティアラもつけてリコーダーを吹いた。あんな格好をして歌を歌わないなんて今思えば余程のことだ。が、一緒に行った先生から
「ドレスにティアラでリコーダーを吹いてもらうと、すごくいいもの聴いた気になりました」
と言われた。やっぱり衣装は大事。    
・1月初旬  声帯の手術を考え始める。
・1月21日 1年前から楽しみにしていた「八ヶ岳声楽セミナー」応募締め切り日。お金も封筒に入れて用意してあったが、夕方までずっと考え続けて、申し込み断念。
・2月15日 紀尾井ホール「瑞穂の会」コンサート。全部3度下げ、本番前はなるべく喋らず喉を温存させて△。
・3月1日 「卒業祝い給食」の時、ドレスを着て3年生8クラスを回って歌う。これもアカペラだったため、生徒に調子の悪さは気づかれなかったようだが、正直この頃、歌への意欲が失われかけていた。毎年やってきたけれども、この年はやる気が起こらず、当日朝まで迷っていた。しかし、予想以上に生徒に喜ばれたことで、歌うことへの意欲を失わずに済んだ。
・3月7日 塚田先生による「福光南部小学校ボランティアコンサート」の司会兼ちょっと歌とリコーダー。これも、派手なドレスとリコーダーでなんとかごまかした。歌は「富士山」と「茶摘み」だけだったが、こんな曲さえ1音下げた。ボランティアとはいえ塚田先生とコンサートを初共演できたことや小学生の喜んでくれる姿に、絶不調ながら精神的にはとても癒された。
・???? 夜、見知らぬ人から電話があり「老人ホームでボランティア演奏をしてくれないか」と頼まれたが、「調子が悪いので」とお断りした。私としては考えられないことである。

<喉の筋肉治療>
そうだ、加茂先生だ。
「体に色々あるときは筋肉の疲労を考えなくてはいけない」
と、あんなに書いたり人に言ったりしているくせに、肝心なときに思い出さない。
「喉の筋肉を緩めてもらえばいい」

4月10日、加茂整形外科へ向かった。
事情を話すと、先生はちょうど声帯の辺りを押さえ
「この辺?」
「痛っ!」
と、そこへトリガーポイント注射(局所麻酔注射)。
嘘のように喉が楽になった。

<「病は気から」その1>
1つ目は、紀尾井ホールの本番。別記エッセイにも詳しいが、あんなに不調の中、とにかく歌ったこと。また、その演奏を「見て」下さった方から「楽しかった」という言葉をかけていただいたことで、もしこのまま喉が治らなかったとしても、この喉で何とかしていこうと前向きになれた。

<「病は気から」その2>
2つ目はのぞみちゃんのオペラ。
のぞみちゃんとは誰よりもたくさん共演している。でも、共演者というのは、その時同時にステージに居る、または、ステージ袖や楽屋にいるわけで、ちゃんと本番を見ることは意外にないのだ。

そこで以前から、のぞみちゃんの演奏会を聞きに行くチャンスを狙っていたが、そのチャンスがついにやってきた。4月13日に静岡で行われる静岡室内歌劇場の公演、オペラ「森は生きている」である。
このことに気づいた頃の私は、まだ不調の真最中で、とても人の演奏を聞きに行けるような精神状態ではなかった。それでも聞きに行こうと思えたのは、のぞみちゃん効果という他はない。

静岡室内歌劇場は有名でもなければ豊かでもない、手弁当でやっているオペラ団体である。(・・って、聞いたわけではないが、きっとそう)仕事をしながら、練習場所をさまよいながら、舞台衣装やセットを手作りしながら本番にこぎつけるのは並大抵ではないだろう。そして本番は昼の部と夜の部の2ステージ。

そこで主役(?かな。私には主役に見えた)の娘を演じたのぞみちゃんは、もうこの役のために生まれてきたようにピッタリ。その他の皆さんの熱演ももちろんで、2ステージとも見終えた私には、なんともいえない力が湧いていた。

<「病は気から」その3>
そしてその翌日。
「瑞穂の会 京都コンサート」が京都で開催された。
このことは、のぞみちゃんのコンサートを聴きに行く時点でわかっていた。しかし先にも書いたように、その時の私には「人の歌を聴く余裕」などなかった。そこで、わかっていたのに静岡からまっすぐ石川県に帰る電車のチケットを買っていた。
ところが、のぞみちゃんのオペラを聴いた翌日の私は、
「京都に行って『瑞穂の会』を聴かなくちゃ気分満々」
になっていた。

翌朝ホテルをさっさとチェックアウトし、静岡駅で京都周りのチケットに変更し、京都府民ホール「アルティ」へ向かった。京都御苑の隣にある素晴らしいホールである。
聴き終えた私は、歌う気満々になっていた。

<おわりに>
4月初旬には妄想さえできていなかった、毎年開催している「美女コン」。
毎年聴きに来てくださっている方から
「今年も夏にあるんですよね?」
と聞かれた時も
「ああ・・・あの・・考え中です」
と、ゴニョゴニョしていた。
が、こうなってくると突然「美女コン」計画始動。

また4月中旬、ちょうどこの頃学校では本格的に授業が開始されるが(それまでは係を決めたり集会があったり進級テストがあったり)そのタイミングでほぼ元の喉の状態に戻った私は、二度とあんな無理はしないと心に誓いながら慎重に授業をすすめている。

ここで今更ながら感じるのは、師であるソプラノ歌手「関定子」の奇跡。先生は2013年現在67歳。6月にオペラ「トゥーランドット」のタイトルロールを演じられる。説明不要!脅威のソプラノ!
先生から「歌うための技術を学ぶ」ことはいつも考えてきたつもりだったが、学ぶことはそれだけじゃなかったということを改めて気付かされた。

みなさん、体は有限です。いたわりながら、末永く使っていきましょう。


50~51歳で声帯を痛めた時のお話(過去のエッセイより) その2 2025年3月27日(木)

このブログは
50~51歳で声帯を痛めた時のお話(過去のエッセイより)その1 2025年3月27日(木)
をお読みになってからどうぞ。

声帯結節手術妄想記(2013年3月頃・51歳のエッセイ)

<想像>
ホーミーもどきの声でジタバタしたあと、その不調が完全には治らないまま年を越してしまった。毎日耳鼻科に吸入に通い、薬を飲みマスクもかけていたがやっぱりよろしくない。小さな突起(指にできる『ペンだこ』みたいなもの)が耳鼻科で鼻から入れたカメラに映し出されていたので、これがどんどん大きくなってしまっているのだろうと想像していた。

<ネット検索>
「声帯結節」
でネット検索すると、その症状の悪化で手術を経験した人のブログがたくさん出てきた。特にプロの声優さんのものには興味津々。
さらに
「声帯結節 手術」
で検索するとやはり声優さんたちのブログには次のように書かれていた。

・手術中ちょっとでも動くと大変なので全身麻酔だが、手術そのものは15分ほどで終わる
・費用は6万円くらい
・翌日には食べたり(酒たばこ以外)何でも出来るが、おしゃべり絶対禁止
・おしゃべりさせないために1週間ほど入院
・その後も極力しゃべらない、笑わない、咳をしない2週間を過ごす 

しかし、どのブログにも
「やって良かった」
の記述があふれていた。

<決断>
「手術しよう」
こう決めたら早い。
1月11日(金)、1並びのめでたい日、朝の占いで魚座が1位の勤務終了後、ずっと通っていたY耳鼻科で先生にこう切り出した。
「先生、私手術しようと思います」
Y先生は
「結節みたいに見えるけどそれほど大きくないし、こういうのを切るのはかえって難しいんだよ・・・・&%#{`”Q”%$#&%$’&%’(&)///////」
とあまり手術には乗り気でなさそうなムードを醸し出しながらも金沢医科大学病院への紹介状を書いて下さった。

その日の夕飯時、決意を家族に述べ、手術日程を考え、さらに心の中では
「声帯結節手術日記」
というエッセイの題名まで考えていた。

<翌朝>
土曜日の朝9時半に家を出て医科大へ・・・っと、その前に、職場である内灘中学校へ立ち寄り、野田元総理大臣似の林教頭先生に事情を説明した。手術をすると3週間喋れなくなるから、今年度末から来年度最初にかけて手術をするのが一番授業に支障がない。その時期に合わせて手術休みをもらおうという相談である。
休日にまず学校に来ない私が学校に来たので、英語教師で天然パーマでインドネシア語が喋れてメガネをいっぱい持ってて卓球部顧問の優しい三輪さんが
「曜日、間違ってるんじゃないですよね?」      
とちょっと意地悪に聞いてきた。
(※ここの記述に関しては本人と相談。「意地悪仲間の三輪さんが」にする予定だった)

本当に優しい教頭先生はすぐに事情を理解して下さり
「校長先生にも了解を得ないといけないですけど、そこは私がアシストします」
と強力な一言。
安心して向かった金沢医科大病院は「金沢」と名乗っているが、間違いなく「河北郡」にある。ネーミング的には「東京ディズニーランド」と同じ。職場から車で3分、家からも車で12分の最高の立地条件である。

<受診>
「269番」で呼ばれて入ったH―1診察室担当は、医科大学病院の耳鼻咽喉科の教授・M先生だった(廊下に書いてあった)。肩書きや権威に弱い私はそれだけで嬉しくなった。あとで判ったのだが、M先生は普段、月曜日と木曜日のみの診察で、この日はたまたま土曜日当番だったそうだ。
早速事情を説明しY耳鼻科と同様、鼻からカメラを入れて声帯の撮影。
(これ、本当に嫌い。痛いし嘔吐反射が出る。なるべくやりたくない)

画像を見た先生の説明は、ほぼY耳鼻科の先生と同じで、およそ次のように説明して下さった。
・結節と言うほどの大きさではない
・声帯が開いたときは突起がなくなっている(私も画像で確認)
・切るにしても難しいし、かえって痛めることになるかもしれない
「先生、歌を歌うには支障がないはずなんですね」
「この状態でも発声の工夫で
ちゃんと歌えるはずです」
そして
「言語聴覚士と相談されるほうがいいですね。今日来ているかどうか聞いてみましょう。・・・・・大丈夫です」

<言語聴覚士Yさんとの面談>
言語聴覚士との相談は完全予約制らしく、私のように急に入れていただくのは稀な様子だったが、2時間後ならということで、一旦病院を出て学校に戻り、教頭先生に手術はなくなったことを報告。その後暇つぶしにこのエッセイを書き始めた。

12時過ぎに始まった言語聴覚士Yさん(30歳前後の可愛い女性)との面談は
・音域検査・・・30年以上前のものだと思われるエレクトーンが置いてあって、どの音まで出るか確かめる。
・朗読検査・・・「北風と太陽」のお話を3行ほど読んで録音。これもテープレコーダーで、30年以上前のもののように見えた。
・音声測定・・・心電図を測る???ような感じの機械で、これまた古い。物持ちのいい病院だ。
・質疑応答・・・「いつから悪いのか」など

最終的にYさんから受けたアドバイスは、一生懸命面談していただいて申し訳ないが、
「無理しない」「歌わない」「しゃべらない」「マスクをする」
というごく普通のもの。

Yさんはこの結果をM先生に報告に行かれたのか30分ほど待って、もう一度M先生と面談。
「結節になりかけという感じかもしれないから、なるべく歌わずに様子を見て、1か月後にまた来てください。・・・まあ、長年の喉の酷使・・・年に応じた喉の使い方を工夫するとか・・・そうやってこれからもずっと歌えるように・・・・予約入れて行かれますか?私が出ているのは月曜か木曜ですけど、どこかご都合のいい日ありますか」
M先生は
「歳のせいですね」
と言いたいところを優しくオブラートに包んで表現してくださっていた。
ということで、次回は2月21日(木)西野真理51歳の誕生日に決まった。

<今後の展開予想>
31歳で白髪染めを始め歌の勉強を再スタート、41歳で老眼が始まり奏楽堂コンクールで2位になった。51歳で何があるのか楽しみにしていたら、こういうことだったのか。
「発声を整えて再スタートしなさい」
ってことだねきっと。
51歳西野真理、さらなる展開の予感!



50~51歳で声帯を痛めた時のお話(過去のエッセイより) その1 2025年3月27日(木)

このブログを始めるまで、私は紙媒体でエッセイを自費出版していました。当然それらは売れるはずもなく、今も押し入れはいっぱいです。でも、書くことも出版することも楽しく、押入れがいっぱいなこと以外、出版して本当に良かったと思っています。
書いていてよかったことの一番は、書かなければ絶対に忘れていた過去のことを思い出せること。今までもしてきましたが、これからも時々過去のエッセイをご紹介していきます。
さっそく、昨日のブログに登場した、喉を痛めていた時のエッセイです。

<はじめに>
エッセイの時とこのブログでは文体が違いますが、そのまま掲載いたします。
またこの中に「過去のエッセイをお読みください」という記述が時々出てきます。それも同時に貼り付けようかと思いました。でも、コメント欄にお一人でも読みたいという方がコメントを下さったらにします。


絶不調からの脱出?(2012年11月頃・50歳のエッセイ)

 
<マーフィーの法則>
「『スランプだ、スランプだ』という人の絶好調の時を見たことがない」
これは随分前に読んだ
「マーフィーの法則」
という本に載っていた言葉で、この言葉を知って以来、
「スランプ」「不調」
という言葉は、私が決して口にしないでおこうと肝に銘じているもののひとつに入っている。

その私が不覚にも絶不調だ。
もちろん家族以外には言っていない。

<ホーミー>
10月23日に出演させていただいたオペラ「天狗と彦市」のときも、今だから書くが、3週間ばかり前からあまり良い状態とは言えず、正直かなりヒヤヒヤした。しかし、なんとか回復期に入ったようで、絶好調とはいえないまでも普通にやれたと思っている。
ところがその後、回復曲線はまたも下を向き、熱も出なければ体の調子も悪くないのに、声の調子だけが悪くなっていった。次の本番(チャリティーコンサート)が11月22日に控えているのに。
どんな状態かというと、モンゴルの
「ホーミー」
という歌い方をご存じだろうか?私もよく知らない。まあ、聞きかじった知識によると、一度に2つの声が声帯からが出る。お得・・・じゃない!
ホーミーの日々がスタートした。
ちょうどこの時期の学校は合唱コンクールの直前で、幸いなことに先生が歌って聴かせる場面は少なくて済んだが、ちょっと喋るとすぐノドが疲れ、ホーミーどころか、しゃべるのさえ嫌になる日が続いた。

<我慢>
授業は何とかなっても歌は歌えない。
こういう時、することは2つ。
「薬を飲む」
そして
「歌わずに我慢する」
耳鼻科の先生に泣きついたが、
「薬を飲んで、無理せずに」
と言われておしまい。

「まだ3週間ある」
「まだ2週間ある」

<カウントダウン>
「まだ1週間ある」
この頃になると、一日中、思考の回転木馬に入った。

「キャンセルしよう→まだ1週間ある→ドタキャンはできない→1週間あれば回復する→断るなら早い方がいい→どんな状態でもやるのがプロだ」

「キャンセルしよう→まだ6日ある→ドタキャンはできない→6日あれば回復する→断るなら早い方がいい→どんな状態でもやるのがプロだ」

「キャンセルしよう→まだ5日ある→ドタキャンはできない→5日あれば回復する→断るなら早い方がいい→どんな状態でもやるのがプロだ」

「キャンセルしよう→まだ4日ある→ドタキャンはできない→4日あれば回復する→断るなら早い方がいい→どんな状態でもやるのがプロだ」

3日前。
ホーミーが今までより高音へ移動した。

2日前。(別エッセイ「酵素風呂体験記」も合わせてお読みください)
ホーミーがさらに高音へ移動した。

1日前。
ホーミーがさらにさらに高音へ移動した。

当日の朝。
ホーミーだけどなんとかなる・・・と思うしかない。

<アカペラさまさま>
私がボランティアやチャリティーで、要するにピアニストに謝礼を払うことができないときは、
「アカペラでよければ」
ということでステージを引き受ける。
今までこのスタイルで活動(修行)をしてきたことが、今回のピンチを救うことになった。
そう、一人ならその時の調子にあわせて、好きな高さで、好きな曲を自由に歌うことができる。ピアニストと事前にプログラムを組んで練習していたら、そう勝手なことは言えない。

<本番>
直前まで声の高さの上限を慎重に確かめながら、
「瑠璃色の地球」
でスタート。
ノドを疲れさせないようにトークはセーブして、なるべく低い調で歌を多めにと思いつつしゃべりはじめたが、
「あれ?」
ちゃんと声が出る。
しばらく喋ったが、しわがれてこない。
次の曲は高音をやや強めにしてみたが、これもOK!
「このままいけるかもしれない」

ちゃんとしゃべってちゃんと歌って本番が終わった。
でもやっぱり、全体の音域は低めに設定して正解。
アカペラさまさまである。

<翌日>
ホーミーから山羊に変身。
脱出途上である。

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