青葉の笛 2023年7月20日(木)

静岡の介護付き自立型有料老人ホームにいる89歳の叔母が急に「要介護5」の状態になりました。

昨年10月に会いに行った時はシャキシャキでしたが、今年3月に意識が朦朧としているというので会いに行った時は、私達を認識することはありませんでした。
しかしその後なんとなく復活して喜んでいたのですが・・・

そのため一昨日、別の叔母が会いに行ってくれました。
行ってすぐは、妹であるその叔母のことを施設の職員さんと間違えたりしていたようですが、なんとかその叔母のことは認識できるようにはなったようです。しかし、認知症はかなり急激に進んでいるようでした。

夜、会いに行ってくれた叔母と電話でおしゃべりする中、私はこんなことを提案してみました。
「私のYouTubeに『青葉の笛』というのがあって、その歌、おばあちゃん(叔母達の母)がよく歌ってたんだって。明日聞かせてあげてみて」

そして昨日、叔母がラインをくれました。
「『青葉の笛』覚えてて、一緒に歌ったよ!」

この歌、私は2年前まで全く知りませんでしたし、もし楽譜を見つけても私が自分から好んで歌う歌でもありません。それを、YouTubeチャンネル「日本歌曲の窓」でご一緒しているピアニストの近藤陽子さんが
「日本歌曲の窓にアップしませんか?」
と提案してくださって、歌うことになりました。
私は全く知らなかった曲ですが、アップしてみると驚くほどの人気で(私のYouTubeとしては)現在1万6千回ほど再生されています。確かに歌ってみるとしみじみとした趣のある歌です。歌詞の内容を知るとさらに趣が増します。
そんな事もあって、先日開催した第29回美女コンでも歌いました。
皆さん、どうぞお聞きになってみてください。


<青葉の笛について>
1番は平敦盛 2番は平忠度のことが歌われています。 明治39年(1906)7月に『尋常小学唱歌 第四学年 上』で「敦盛と忠度」という題で掲載され、のちに「青葉の笛」という題になりました。 『平家物語』では『小枝』(さえだ)という横笛、謡曲では『若葉の笛』といいます。  ※以下、歌詞について調べてみましたが、その結果一番感じたのは、これだけの内容をこの短   い歌詞にまとめられた大和田建樹さんの素晴らしさでした。     ~Wikipediaより~    大和田 建樹(おおわだ たけき。安政4年4月29日(1857年5月22日) - 明治43年(1910     年)10月1日)。日本の詩人、作詞家、国文学者。東京高等師範学校(現・筑波大     学)教授。「鉄道唱歌」「故郷の空」「青葉の笛」などの作詞者として知られている。 1 一の谷の軍(いくさ)破れ   討たれし平家の公達(きんだち)あわれ   暁寒き須磨(すま)の嵐に   聞こえしはこれか 青葉の笛 2 更(ふ)くる夜半に門(かど)を敲(たた)き   わが師に託せし言(こと)の葉あわれ   今わの際(きわ)まで持ちし箙(えびら)に   残れるは「花や今宵」の歌 <1番の「青葉の笛」とは> 弘法大師(空海)が唐にいる時に、青龍寺で造った笛。 その笛に青葉が生え、帰国後、嵯峨天皇に献上されました。 それが鳥羽院から平忠盛(敦盛の祖父で笛の名手)へ、さらに平敦盛へとわたっていきます。 現在神戸の須磨寺にそれと言われるものが保管されています。 須磨寺には弁慶の鐘、敦盛首塚、義経腰掛の松などもあります。 平敦盛は平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加しました。 源氏側の奇襲を受け、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止め、敦盛は応じます。 直実が敦盛を馬から引きずり下ろし、首を斬ろうと敦盛の顔を見ると、我が子・直家と同じ年頃。 直実は首を斬ることをためらいますが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を斬りました。 直実が首を包もうとしたとき、一本の笛を見つけました。それがこの青葉の笛です。 直実は決戦前日の夜も、平家の陣屋からの笛の音を聞いており、昨夜の笛の音はこの公達であったかと感心しました。 直実はこれをきっかけに出家し、敦盛を弔ったと言われています。 <2番の平忠度(ただのり)> 忠度は歌人としても優れていて、藤原俊成に師事していました。 平家一門が都落ちした際,わざわざ淀から引き返して、藤原俊成の屋敷へ行き、自作の歌100首ほどを書いた巻物を師に託し、「1首なりとも勅撰集に採用してほしい」と願って立ち去りました。 忠度は一ノ谷の戦いで、源氏に紛れる作戦をとっていましたが、源氏の多くが付けていないお歯黒を付けていたので見破られ、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死しました。 忠度の遺体の箙(えびら:矢を入れて背に負う道具)に結びつけられたふみを解いてみると、「旅宿の花」という題で次の一首の歌が詠まれていました。それをこの2番の歌詞が表しています。   「行(ゆき)くれて木(こ)の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし」 その後、俊成は忠度の願いを叶え、託された歌のなかから1首を『千載集』に採用しました。しかし、朝敵となった忠度の名を憚って、詠み人知らずとして掲載しました。

2 件のコメント:

sapporo1972 さんのコメント...

コンサートには参れませんでしたが、『青葉の笛』をYoutubeで拝見しました。
落ち着いた堂々たる歌いぶりで、情景が目に浮かぶようでした。
叔母様達が覚えていらしたとのこと。歌はやはり言葉よりも先。脳のいちばん若い
部分で覚えていますから、忘れないんですね。
それにしても『平家物語』のこんな人としての心ばえを歌った歌を習っていた時代の
しあわせというものを思いました。戦においても笛と和歌を忘れない、そしてその美徳には
敵将さえもが感じ入り、それは互いの生死をも超えるというのは、今時の戦場や兵士には
存在しないものでしょう。そして平和な国の人たちも、この心ばえ、覚えているかどうか…?
ていねいに文語の歌詞まで添えていただいて、コンサートのお裾分けに与った気分です。

西野真理(Sing幾多郎) さんのコメント...

sapporo1972様

いつもブログをお読みいただきありがとうございます。
また今回はYouTube動画も合わせて見ていただき光栄です。
ブログに書きましたように、「青葉の笛」は私のストックにはごく最近入り
好みの曲というわけでもなかったのですが、歌うに連れ味わいが増していきました。
さらに、予想以上に多くの方にお聞きいただいていることや、先日の叔母の件もあり
長く歌い継がれている作品の価値を感じているところです。

ブログには書きませんでしたが、私の母も当然祖母の歌を聞いていたのですが
1番しか知りませんでした。
とても意外でした。

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