善の研究 完全版3 2019年10月22日

 

NHK 100分で名著 

西田幾多郎・著「善の研究」書き起こし

第3回 「純粋経験」と「実在」

解説 批評家:若松英輔

 

<3回目に突入>

今日は2019年10月22日火曜日。

令和の天皇陛下即位礼正殿の儀でお休み。

先日からの雨で被害が大きく、この日のパレードは中止になったようですが、儀式は行われるため、お休みはそのまま。皇室大好き西野真理としては正午頃から行われる儀式はテレビにかじりついて観なければなりませんので、早朝から昨夜の番組書き起こしスタートです。

 

<第3回 純粋経験と実在>

司会者

そもそも「善の研究」のタイトル、最初は「純粋経験の実在」だったんですね。

 

若松

そうですね。この本の主題は「実在とはなにか」ということのほうが大事。ところが本を出版するときになっていろいろな事情があって「善の研究」

になっていくんです。そこでちょっと、その重大さを、西田自身の言葉で確かめてみます。

「善の研究」の序文です。

 純粋経験を唯一「実在」としてすべてを説明してみたいというのが、余が大分前から有(も)っていた考えであった。

という風に西田は言うわけです。「純粋経験」と「実在」というのは言葉と

しては違うんだけども実はひとつなんだということを頭の片隅に置いておいていただけるといいんじゃないかなと。

 

私はなんの影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる、物質の世界という如きものは、これから考えられたものにすぎないという考えを持っていた。

まだ高等学校の学生であった頃金沢の街を歩きながら、夢見る如くかかる考えに耽ったことが今も思い出される。その頃の考えがこの善の基ともなったかと思う。     (「善の研究」版を新にするにあたって)

 

「実在は現実そのままのものでなければならない」

若いときから西田は真の実在とは日常の直感的経験であるはずだと感じてた。そして

「実在を捉えるには世界をありのままに感じなければならない」

と繰り返し述べている。しかしそれは容易ではない。価値観や世界観など様々なものが覆い隠しているからだ。そのため西田は主観と客観という対立が立ち上がる以前の直接的な意識・純粋経験に注目した。

例えばここにある1個のリンゴはどのリンゴとも違う固有のリンゴ。しかし一度「これは赤いリンゴである」と認識するとたちまち一般化され題名化されたありふれたリンゴになってしまう。そうではなく、人間が認識し言葉で表す前のリンゴそのものを感じること、その純粋経験で捉えたものこそが実在であり、ものをあらしめている働きのこと。

 

伊集院

こんな難しいことを学生時代にずっと金沢で考えていたんですか?

 

若松

ずっと歩き回って(笑)。今の西田の哲学の原点というのは、とても日常の生活に根付いているんです。そこを私達が言葉で語ろうとすると、とたんに難しくなるということがホントかもしれませんね。

 

伊集院

なんとなく直感的に入った食堂がめちゃくちゃ美味かった。それをネットで調べると評価サイトで点数が何点と説明が書いてあったときに意外と低い時、「あれ、あんまり美味しくなかったんじゃないか」って、よくわかんなくなる。人の言うことに流されて、最初の「美味ッ!」がどこか行くってことがありますよね。それに似たことっていうかその逆を言ってましたよね。

 

若松

おっしゃるとおりです。直感の方へ行けってことを西田は言っている。私達はどうしても数字や量で表されたほうに従っちゃうんです。そうじゃない方を探ってみようというのが西田の「純粋経験」であり「実在」のあり方なんです。

~実在~

・現実そのままのもの

・世界をあらしめている働き(世界の真相)

・「純粋経験」を通じてのみ経験される

・知性だけでは捉えきれない

若松

ちょっと気をつけなきゃいけないのは、私達は現実って言っちゃうと、自分が見たものっていう風に思ってしまいます。でも西田の言う現実はそうじゃない。私達の判断の入る前なんです。ちょっとリンゴを出してみましょう。これは何色?

 

伊集院

赤

 

若松

私達は自分で口に出した言葉の方に行っちゃうんです。感じた方ではなくて。

 

伊集院

それがすごくわかるのは、(ラジオの仕事をしていて)ラジオって言わなきゃ存在しないわけですよ。だからここにあるものを、例えばリンゴを「ここにリンゴがありましてね」って言うんですよ。言った途端にこのリンゴのことじゃなくなるっていうのはよくわかるんです。似たようなものをみんなで思い浮かべているだけの話になったり。

 

若松

言葉で説明しようとすると途端に難しくなる。だけど、難しくないものはとても素朴なものは奥にある。

今日、もう1個リンゴを持ってきてみたんですけど、これは何色ですか?

よく似てますけど明らかに番う。私達は「赤」とかという時、実はですね赤という色だけじゃなくて「色そのもの」みたいなものを感じてるんです。

 

伊集院

それは下手すれば色ですらないっていうか、色っていうのは便宜上そう言っただけで、もっと、何か全てを感じてる。

 

若松

そうなんです。それがここにある「世界をあらしめている働き」

 

司会者

「純粋経験」と同じものって言っていいんですか?

 

 

若松

同じものと言うよりも「粋経験」を通じてのみ実在を認識できるんだという言い方のほうが正しいかも。

 

伊集院

存在は、自分が認めようと認めまいとしてるんですよね。存在しているということが、今僕が純粋経験をしているということなんですね。

 

純粋というのは、普通に経験と言って居る者もその実は何らかの思想を交えて居るから、豪も思慮分別を加えない真に経験其儘(そのまま)の状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那 (略) 我がこれを感じて居るとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前を言うのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下(じか)に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一して居る。これが経験の最醇なるものである。

(第一編 純粋経験 第一章 純粋経験)

 

未だ判断が加わらず、主観と客観が合一している直接的経験、これが純粋経験なのです。

 

若松

ここで大事なのが「直に経験する」。私達は経験する時以外に色んなものを交えている。私達はいろんな眼鏡をつけて世界を見ている。如何ともし難いですが「日本語」というのも一つの眼鏡なんです。いい悪いではない、言葉ってものも一つの眼鏡なんですけど、自分の価値観、人生観、いろんな眼鏡がある。違う人が見れば違う面を見てるということを私達はもう一度思い出さなくちゃいけない。

 

伊集院

純粋経験・直接経験自体を完全に止めたり捉えることは無理だとしても、今の状態が、そうではなくなってる事はわかる。そういうことの存在を知っていれば、随分離れたか近いかはわかる。

こないだ、生まれて初めて車いすラグビーの取材があったんです。車イスラグビーのルールも全くわかんない。その状態で車イスと車イスがぶつかる音を聞いて、その瞬間にわかったことがいっぱいあったんです。ルールじゃなくて。今言葉に出すと「怖い」とか「とてつもない衝撃がおきてる」とかになるけど、その音を聞くとそれが一瞬で理解できて、その後ルールを聞いてゲームがわかってくるんですけど、多分あの音の瞬間が純粋経験に近くて、あの音そのものは、あの競技そのものを理解させる。この音に俺は震えてるってことはわかった。

 

若松

それは何だったんですか?と聞いた途端に言葉で返してくださいましたよね。そうすると、だんだんだんだん薄まっていく。西田は、それはちょっと違うかも、説明するごとに出来事を小さくしてるんじゃないか。言葉という枠が。

先程のラグビーのことは、あの音は言葉にはならないんですよね。近代は色んなものを言葉の枠に入れて考えてきた。あるいは科学の枠っていうのもあります。

 

伊集院

俺らは映像の枠なのかもしれない。

 

若松

眼鏡を外していくっていうのは最後まで難しいかもしれない。でも、眼鏡をつけてない状態が、私達の日常の深い所にいつもあるんだと、でも誰もあまり意識しない、自覚しないで生きているってことですね。

「善の研究」が出版されたのは明治から大正へと時代が移り変わろうとしていた頃。急速な近代化は様々な歪を生み出していた。青年たちは「自己とはなにか」「いかに生きるべきか」といった哲学的苦悩にさいなまれるようになる。彼らのバイブルが「善の研究」だった。当時の流行作家・倉田百三はこの本との出会いをこう書いている。

「私は何心無く其の序文を読み始めた。しばらくして私の瞳は活字の上に釘付けにされた。見よ、『個人あって経験有るにあらず。経験あって個人有るのである。個人的区別よりも経験が根本的であるという考えから独我論を脱することができた。』とありありと鮮やかに活字に書いてあるではないか。独我論を脱することができた?!この数文字が私の網膜に焦げ付くほどに強く映った。(略)涙がひとりでに頬を伝った」(愛と認識との出発)

 

経験は個人に属するのではなく、経験があって個人というものが生まれる。その経験とは純粋経験と日常経験が折り重なったもの。

ここに真の実在を見出した西田の哲学が、西洋の「人間中心」の世界観を脱した哲学と新鮮に受け止められた。そして「不完全な個人である私でも経験次第で変化していけるのだ」と、当時の青年たちを強く勇気づけるものとなった。

 

伊集院

江戸時代が終わって西洋のものがどんどんはいってきて、みんなワクワクしていた時、「独我論」が自分にあまりフィットしないぞって思った人はいっぱいいた?

 

若松

そうですね。「私がどう生きるべきか」ってことじゃ道が見えてこないって人がいっぱいいたんですね。倉田百三は心に大きな病をいっぱい抱えてそのときに西田と出会って、今お話があったような経験をしていくわけなんです。其のときに彼が考えていたのも、「私がどう生きるべきか」常に「私が」が問題だったわけですよね。そうじゃなくて経験があってお前は変わっていけるんだ、お前が意思することが問題じゃなくて、もっと違う力がお前を変えていく、そういう人生の場面も有るんだよ、っていうことですよね。

 

伊集院

人生と真摯に向き合うがゆえに、「お前には自分ってものはないのか!」ってことに悩んじゃう人が今もいっぱいいます。

 

若松

その自分ってものが単独で存在しているのであればそれでもいいんですが、そうじゃないですよね。「独我論」っていうのはどこかそういうところがあるんです。「私が」ってことが孤立したような。そうではない広い所に西田の言葉が倉田百三を導いていった。倉田百三が経験したのはほんとうの意味での自由だと思うんです。

 

~裸の眼で見る~

純粋経験をした時人は真の意味で物を見、物を知ることができる。そんな状態を西田は「知的直観」と名付けた。それは意識の極めて統一された状態のこと。例えば一生懸命に断崖をよじ登るときや音楽家が熟練した曲を演奏する時、つまり無心になっている時に知的直観が働く。中でも芸術は直感への大きな入口。

モーツァルトは曲を作る時どんなに長い曲でも立体的にその曲を頭の中にイメージする事ができたといいます。このように私と対象が一体となり実在に触れる時、知的直観が開かれる。

 

人間運動で知られる思想家の柳宗悦は西田のこの哲学に大きな影響を受けた。

「誰も物を見るという。(略)どう見たのか。じかに見たのである。『じかに』ということが他の見方とは違う。じかにものが目に映れば素晴らしいのである。大方の人は何かを通して眺めてしまう。いつも眼と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、ある者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める」                   (柳宗悦 茶道論集)

 

本当に物を見るにはどうすべきか。柳は「直に見なくてはならない」といいます。その時思想や嗜好、習慣はそれを妨げようとします。裸の目で世界と向き合う時初めて美が現れる。柳の思想は西田の説く知的直観の哲学と深く通じている。

 

若松

柳宗悦という人は「民芸」という言葉を作った人。「民芸」というものは柳宗悦が「民芸」という言葉を付ける前はガラクタだったんです。「民芸」というのは名もなき人が作ったものなんですんね。名もなき人の作ったものを私達が直に見ることができればそこに本当の美を見出すことができる。我々は実は「誰が作ったか」「これはいくらである」とか「前に誰が持ってた」とかそういう事を見てる。そうじゃない、物そのものを見ろ、と言ってるわけ。

 

司会者

直に見ることを妨げるものとして3つ挙げていますね。

思想・嗜好・習慣

 

若松

思想というのは確かにある角度から私達にとてもよく世界を見せてくれる。使い方を間違えると少し大変なことになる。

嗜好っていうのは簡単に言うと好き嫌い。私達のとても嫌いな人がとても大事なことを言うことがありますね。好き嫌いで物を見ると、私達はとても大事なものを見失うかもしれない。

習慣というのは、例えば、この本読んだことがあるからいいよ、ということ。でも、昨日の私と今日の私は違うから、今日読んだらもう、天地がひっくり返るようなことがあるかもしれない。柳は「今日出会うこととあした出会うことは全く違う。習慣的に単に繰り返しているって思うことは本当の経験から遠ざかることになる」と言っている。

こういう物を取り外して裸の眼で物を見てみようといている。

 

司会者

西田は純粋経験を妨げるものとして3つ挙げています。

思想・思慮分別・判断

 

若松

純粋経験というのは時間が入らないということを私達は見てきましたね。判断というのは時間がかかっていろんな物を判断しているわけですよ。時間が入る隙間がないような経験に基づかなきゃだめですよと言っている。私達が判断する時私達は様々な経験則で判断している。そうじゃないもので世界と向き合って行くのがとても大事だよと言っている。

 

伊集院

自分が今間違いないって思ってることや見たんだと思ってることの中にこれ(思想など)は入ってやしませんか?ということをいつも考えようってことを言ってる。これは今日からできそうだ。

 

司会者

どれも普段からあるんだよ、って言ってもらってるような気がしましたね。

 

伊集院

当たり前にあるんだけど、がゆえに見つけづらい、見えにくいってことはありますよね。

若松

私達はいつの間にか日常というものを低い所に置いてしまったのかもしれない。非日常の方が価値が高くて日常のほうが価値が低いっていつの間にかなったかもしれない。西田はそこのところをひっくり返っそうとしているのは間違いないと思う。

善の研究 完全版2 2022年10月22日

フェイスブックに「アクセスだけでもしてください」とお願い文を載せたところピアニストの陽子ちゃんから「完全版も読ませてください」と嬉しいコメントをいただきましたので、これから順次貼り付けます。

 

NHK 100分で名著 

西田幾多郎・著「善の研究」書き起こし

第2回 「善」とは何か

解説 批評家:若松英輔

 

<2回目突入>

さあ、2回めも頑張ってみましょう。

それでは書き起こしです。

 

<序>

今から100年前に誕生した哲学書「善の研究」。作者の西田幾多郎は人生の悲しみや苦悩を出発点として「真に生きることが可能かどうか」を問い続けた。

「善とは一言で言えば人格の実現である」

第2回は西田の考えた善の思想について読み解いていく。

 

<第2回 「善」とは何か>

司会者

第2回でいよいよタイトルに入っている「善」とはなにかですけど、「善悪」の善と捉えていいんですか?

 

若松

いや、そこが先ず一番大きなハードル。西田は「善は我々の中に『種』のように存在していてそれが開花していく可能性」をこの本で読んでいける。

 

伊集院

漢字にとらわれて「これは良いことの話なんだ」と思わないほうがいいですね。

 

若松

そうですね。

 

①自己について(第4篇の「宗教」を振り返りながら)

西田は宗教を「大いなる働き」と捉えていた。そのうえで大いなるものを求めるのは真の自己に出会いたいという要求だと考える。大いなるものの前で人は自らの限界を知り自分が絶対的な存在ではないと自覚する。そして「己は小さきものだ」と思いいたり、大いなるものに畏怖を持って向き合う、その時自己の根底で可能性が開花し、人間は真の自己になる。それを西田は「善」とした。

 

「かく考えて見れば意思の発達完成は直ちに自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成self-realizationであるということができる。即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発展を遂げるのが最上の善である」                 (第三篇 善 第九章 善)

 

伊集院

また前半ついていけるかなと思ったら、後半おいていかれましたね。

 

司会者

私達の考える宗教とは違いましたね。

 

若松

現代人は宗教というと、ある宗派だと思ってしまう。そうではなくて、宗教というのは「おおいなるものからの呼びかけ」くらいに思っていただけばいいんじゃないでしょうか。

皆さん、手のひらを出していただくと、現代の宗教と西田の言う宗教との違いは、指が一つ一つの宗派的な宗教。仏教とかキリスト教とか。で、手のひらが西田の言う宗教。

 

伊集院

なるほど、僕はもともと無宗教なんだけど、この番組でいろんな宗教の本とか読ませていただくと、なにか言っている根底はみんな同じって気がするんですね。それは人々が暮らしていくためにみたいなことだから、納得はします。

 

司会者

西田の言う「善」としては、善=人格の実現 なんですね。

若松

善というのは人格、すなわち人間であることの可能性でう。それが実現・開花することが善なんだ。それが西田の考え方です。

 

伊集院

自己実現、というのは今よく「自己啓セミナー」なんてよく耳にする言葉なんですけど・・・

 

若松

全く違います。むしろ正反対だと思います。現代の私達は自分が元気になれば・幸せになればと考えるのが自己です。西田はそうは考えていなくて人と不可分な、分けることのできない関係こそが自己なんだ。

 

伊集院

おんなじ言葉だけに難しいですね。僕が言った方の自己実現は、きちんとした目標を立ててそれを達成しましょうっていう風に使われてるんですけど…

 

若松

むしろ、そういうことを全部捨てたところから始まっていくのが西田の言う自己。私を手放していく、私であろうとするところから開かれていく。そこが西田の哲学の大変重要なところ。

 

伊集院

そもそも自分の根底にシンプルに自己はあると言ってるんですか?

 

若松

あるんですけれど多くの人はそれを知らない。もう一つは、自己というものは自分だけの力では存在していない。

 

伊集院

人間って群れで生きる動物じゃないですか。人間は群れで行動できるようにプログラムされてるような気がするんです。根底には群れとして自然の摂理にかなった行動ができるようになってるんじゃないか。

 

若松

そうなんです。私達はあまりに自分らしくあろうとするあまり、かえって自分らしくなくなるんです。

 

伊集院

わかる気がします。自分らしくなろう、自分はこういう人間のはずだなんて考えるとどんどん不自然になる。

 

若松

私達は不完全なので、自分が正しいと思うことが絶対の善ではないんです。その人にとって良いことでも、意見の違う人にとっては正反対のことになるんです。私達は哲学の原点に立つときに、自分の中に今ここに絶対的なものはないんだというところからスタートするのがとても重要なこと。

 

②善は行為である

 

「善とは自己の内面的要求を満足する者をいうので(略)これをまんぞくすること、即ち人格の実現というのが我々に取りて絶対的善である。而してこの人格の要求とは意識の統一力であると共に実在の根底における無限なる統一力の発現である。善はかくの如き者であるとすればこれより善行為とは如何なる行為であるかを定めることができると思う」                  (第三編 善 第十一章 善行為の動機)

 

「善とは考えるものではなく表すもの。行為によって体現されるべきもの」と西田は考えた。その行為とは私達の普段の行動とは違う。表層意識と深層意識が一つとなり行為するとき初めて善への道が開かれるという。

 

「富貴、権力、健康、技能、学識、それ自身において善なるものではない、もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。そこで絶対的善行とは人格の実現そのものを目的とした即ち意思統一そのもののための働いた行為でなければならぬ」

(第三編 善 第十一章 善行為の動機)

 

人格的要求とは人間を人間足らしめている働きのこと。それに従っているとき私達は自ずから自分だけでなく他者の存在も尊ぶことができる。しかし、人格的要求に反したとき、つまり、他人を尊ぶことができないとき、たとえ健康や学識など一見善なるものでも容易に悪とつながると西田は警鐘を鳴らす。

 

司会者

善は行為をしているときにある言ってましたね。

 

若松

考えるだけじゃない状態が行為。あともう一つは、行為のときには必ず他者がいる。

日本に臨床心理学を紹介してくださった河合隼雄さん(1928-2007)あるいはユングによると、我々の意識は層をなしている。我々はふつう意識というと個人の意識と思いがちですけど、私達の心の深いところでは、もともと他者とつながってるんじゃないか。



西田が善というのは普遍的無意識の層まで入って、我々の中にあるものが開花したら何かが始まるんじゃないか。私達は深くなればなるほど開かれていくという習性を持っている。

(例えば)怒っているとき私たちはとても狭いところにいる。もう少し心を深めていくと未知の人たちと深くつながったりする。西田はまず1つのステップとしては小さな意味での私から離れていくことだと言っている。もう一つは、そこには必ず他者がいる。

 

伊集院

自分が自分のことしか考えてない場合は、西田の言う善には到底近づいてないですね。

 

司会者

西田はこう書いていますが。

「富貴、権力、健康、技能、学識、それ自身において善なるものではない、

もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。

そこで絶対的善行とは人格の実現そのものを目的とした即ち

意思統一そのもののための働いた行為でなければならぬ」

(第三編 善 第十一章 善行為の動機)

若松

「人格的要求」とは他者の人格を尊ぶこと。他者を大事に思わなかったときは悪になるということ。

「意識」という言葉を西田が言うときには、普遍的意識まで含むもの。普遍的無意識のために働いた行為でなければならない。私にとって得であるとか、狭い世界の私達、家族だけにとって得だとかじゃなくて、もっと深いところで人間になにかできたとき、それは本当の善なんだ。

 

この言葉は見方によってはとっても希望に満ちた言葉なんです。誰でもここまで行けるんだよ。これが、人格の実現なんです。

 

伊集院

見失っている人も掘れてない人もいるけれど、自分の奥底には流れてるんですよっていうことですか。

 

若松

そういうことです。

 

「善とは一言にて云えば人格の実現である。これお家より見れば、真摯なる要求の満足、即ち意識統一であって、その極みは自他相忘れ、主客相没するという所に到らねばならぬ。外に現れたる事実として見れば小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達するのである」 

  (第三編 善 第十三章 完全なる善行)

 

人格を実現することは自己を深めていくことだ。自己を深めるとそれだけ

自分が他者に開かれていく。その開かれ方が最も深くなったとき、それは

人類にまでつながる。人類の中には同時代の人間だけでなく、過去や未来

も含む。完全なる善良は果てしなく大きなものへの愛に昇華する。

そんな壮大なる善良は極めて難しいように思えるが、だれにでもできるい

と西田は言う。

 

「かくの如き完全なる善行は一方から見れば極めて難事の様であるがまた一方より見れば誰にもできなければならぬことである。道徳のことは自己の外にあるものを求むるのではない、ただ自己にあるものを見出すのである」

(第三編 善 第十三章 完全なる善行)

 

若松

西田の哲学は一見すると「私を掘っていく」イメージがあると思うんですけど私を早々に超えて 私→私達→人類・宇宙

ってところへ行けっていうのが西田の考えなんです。

 

伊集院

子供が喜ぶ顔見てるのって楽しいじゃないですか。これは子供も自分もつながっている思想。で、子供のお友達の機嫌もいいほうがおそらく子供も喜ぶ。そうすると、お友達のお母さんもつながっていく。そうして掘っていくと下の方はお芋みたいにすごくつながってる。

 

司会者

西田はさらにこう言ってます。

「・・・道徳のことは自己の外にあるものを求むるのではない、ただ自己にあるものを見出すのである」

これはどういうことでしょうか?

 

若松

ここは珍しく端的に言ってくれてますが、発見するわけですから、あるんです。善というものは私達が努力して作り上げていくものではなくてすでにあるものを発見していく。

私達はもしかしたら善という言葉よりも「生きる意味」くらいに変えると少しわかりやすいかもしれない。生きる意味がもう私達の中にあってそれを私達が見つけていくのであって、生きる意味を私達がつくっていくんじゃない。

 

第三編「善」の最後を西田はこう締めくくっている。

 

 「終わりに臨んで一言しておく。実地上真の善とは唯一つあるのみである、即ち真の自己を知ると言うに尽きている。我々の真の自己は宇宙の本体である。真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きている。而して真の自己を知り神と合する法はただ主客合一の力を自得するにあるのみである」

   (第三編 善 第十三章 完全なる善行)

 

そして西田はこんな逸話を紹介している。

「中世の画家ジョットはローマ法王の前で『画力を見せよ』と命じられた時、ただ一円を描いた、という。シンプルで欠けることのない丸い円。我々は道徳の上でこのジョットの一円形を得ねばならない」

と書いて善の章は終わっている。  

 

司会者

「宇宙の本体と融合し神意と冥合する」

これはどういう意味ですか?

 

若松

一見壮大に見えるんですけどまず私達自身が宇宙の一部です。ここも宇宙

です。現代人は宇宙にロケットで行けるようになって、ここが宇宙だって

ことを忘れちゃった。

現代の言葉に置き換えると、宇宙=無限 ってことでしょうね。

西田における神っていうのは「大いなるもの」ということなんですけど、

ここで大切なのは「言葉を超えた世界で一つになる」ということなんです。

言葉を超えて無限と一つになる=善

無限というのは人類なんです。そういう物に開かれていた時私達は善というものを求めることができるんだということなんです。

 

伊集院

○というのはどういうことでしょう?

 

若松

大変素朴なものだということでしょうね。完全な円を描けるという素朴な行為の中にあらゆる要素があるんだということ。(西田も描いているが)禅宗のお坊さんたちもよく円を描いている。私達が善を求めていくときも複雑な多くの言葉を持って説明しなければいけないものではなくて大変素朴な行為の中に善が現れるんだということを西田は伝えようとしてくれてるんじゃないでしょうか。

私達は多分何者かに生かされてるんだと思うんです。しかし、どう生かされているか、こっちも大変大事だと思うんです。私達は両方考えていかなきゃならないんじゃないかと思います。

カント「純粋理性批判」4 2022年2月4日

 NHK 「100分de名著」

カント『純粋理性批判』書き起こし 要約版 4


<第4回 自由と道徳を基礎づける>

「欲望の言いなりにならずに正しいかどうかを考えて行動する」

カントによればそれは

「道徳的に生きる」

ということ。言い換えれば

「私たち人間には自分を成長させることはなにか、また、他人の幸福に貢献することとは何かを考え、それを実行する自由がある。そうやって生きるのが最高の道徳的生き方だ」

カントは人間が認識し得ない客観的事実を「物自体」、感覚器官を通して得たものを「現象」と区別した。そして「自由」は「物自体」と同じように人間には認識できない世界にあるとした。さらにその世界を「叡智界」と名付けた。

「自由は実はこの叡智界に属している」

それがカントのたどり着いた結論。この結論こそが私たち人間がこの因果の世界で自由に行動できることを保証している。

 

欲望そのものにただ従うんじゃなくて、その行為が道徳的かどうか、人の幸福につながるか、自分の成長につながるか、この2点が大きいが、そこにつながると判定して、それでもって行為する時、非常に納得した人生を送れる。自分で自分の行為の正しさをはっきりと認識して生きる。こういうところに人間の自由がある。

 

カントが頭にあったことは

「人に貢献することの大事さ」

ということ。人の幸せにつながることをやって生きていくことの大事さ。、やっぱり喜びを味わって生きる。しかし、ちょっと道徳に偏っているという印象も否めない。

カントの考えに対してニーチェ(19世紀ドイツの哲学者)は

「どうかしてるよ」

みたいな悪口を言っている。

 

カントの墓地には

「頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、ますます新たな驚きと畏敬の念を持って心を満たす2つのものがある。それは、我が頭上の星を散りばめた天空と、我が内なる道徳法則である」(『実践理性批判』より)

という言葉が刻まれている。

カント「純粋理性批判」3 2022年2月4日

 NHK 「100分de名著」

カント『純粋理性批判』書き起こし 要約版 3


<第3回 宇宙は無限か、有限か>

宇宙はどうやって出来たのか?人類が長きに渡っていだき続けたロマン。しかしカントによれば

「そのような問は考えても絶対に答えは出ない」

と言う。なぜそう言い切れるのか。

 

それを証明するために用いたのが「アンチノミーantinomy」。

「対立する2つの命題がともに証明できてしまい、どちらが正しいのか決着がつかない状態」

のこと。

 

カントが人間の理性について考えるのに用いたアンチノミーは4つ。

 ①宇宙は無限か?有限か?

  ②物質の最終要素は存在するか?

  ③自由の原因性はあるか?

  ④無条件で必然的な存在者はいるか?

人間は答えのでないことを話したがる。人間の理性には2つの関心があり

2つの関心の方向によって矛盾した考えが出てくる。

1つ目は「完全性を求める」。全部たどって完結して完璧だと言いたい。

2つ目は「真理を追求したい」。どんなことに対しても「それ本当?」と問い続ける権利を持ってる。問い続けたい人は無限説に傾く。

だから無限説・有限説は理性が持ってる2つの関心に由来する。

 

カントによれば、

「際限なく推論を重ねた結果、人は答えのない問を生み出してしまう」

という。それは魂や宇宙全体、神について議論すること。

人々は2000年以上もの間、哲学の重要なテーマとしてその答えを探し続けてきた。しかし、それらは人間の認識を超えた世界の話。だから答えは出ないのだ、とカントは古代ギリシャから受け継がれた哲学のあり方を一刀両断した。

カントは

「どうやって人が生きるか?」

生き方の問題の方で人間の理性の特質が発揮される、生き方の問題が大事なんだということの方に話をシフトしていく。

カント「純粋理性批判」2 2022年2月4日

NHK 「100分de名著」

カント『純粋理性批判』書き起こし 要約版 2


<第2回 科学の知は、なぜ共有できるのか>

カントによれば、私たちが物事を認識する時、それは3つの判断に分類できるという。

1つ目は「分析判断」

主語の中にもともと含まれているものを述語として取り出した判断のこと。例えば

「富士は山である」

という文章。学術的に誰もが共有できる文章ですが知識は増えない。

 

2つ目は経験的総合判断

実際に調べることによってあらたな情報を主語に加えた判断で、知識は増えていくが、その反面経験が積み重なることで、で以下が変わり、確実性が担保されないという欠点がある。

 

3つ目の判断「ア・プリオリな総合判断」

カントによれば、経験に基づかずに新たな情報を主語に付け加えられ、かつ、誰もが信頼できる判断があるという。それが「ア・プリオリな総合判断」。ア・プリオリとは(※a priori先天的)

「先天的で経験を必要とせずどのような状況下でも成り立つこと」。

カントによればこの性質は私たち人間の共通規格から生まれる。

例えば

「2つの点を結ぶ直線は1本しか引けない」

という行為。この行為は経験せずとも誰もが共有でき、しかも主語にない情報を付け加えているのでア・プリオリな総合判断。そしてこの行為は幾何学の土台となりあらゆる知識へと発展していく。

 

もう一つの代表例が「因果律」

「あらゆる変化には必ず原因があり偶然に物事が生じることは決してない」

という、人類共通に備わった思考パターン。これによって人は自然法則を導き出してきたので、自然科学は共有しうる知識になるとカントは考えた。

 

カントは自然科学や数学が皆に共有しうる知識である、とその証明に力を注いだ。その最後に

「これらあらゆるものの根本に『私』という存在があり、それがすべての認識をまとめているのだ」

と結論づけている。


カント「純粋理性批判」1 2022年2月4日

 NHK 「100分de名著」

カント『純粋理性批判』書き起こし 要約版 1

<第1回 近代哲学の二大難問>

1つ目の問題

「存在するすべてのものが因果法則で決定されているとすれば、人間も法則に縛られ自由がないのではないか?」

2つ目の問題

「『私』が認識したことは本当に客観的な世界と一致しているのか?」

この難問に対して2つの立場が生まれる。

 

一つは何事も自分で経験しなければ認識できないという、イギリス経験論。「人間は主観的に経験したものを、ゼロから積み上げなければ、認識を作れない」

という考え。

例えば私は見て触って食べることで初めてりんごという認識が生まれる。

しかし、この考えに立つと人間は主観の外に抜け出せなくなってしまい、自然科学の客観性をも疑う自体に発展してしまう

 

一方「大陸合理論」という学派は人間には合理的に物事の心理を捉える知的能力が先天的に備わっており、それにより認識が作られると主張。

この能力を使えば人間の死後や神の存在に至るまで世界を理詰めで認識できるという。しかし

「意識の中では完全に構築できていても、結局頭でこしらえただけではないか」

と指摘されたら反論の余地なし。

 

2つの学派は対立し哲学そのものが存亡の危機に陥る。

カントはもはや調整不可能と思われた2つの学派の間に立ち「哲学救済策」とでも言うべき本を10年かけて書き上げる。それが『純粋理性批判』。

 

「純粋理性」

=「人間にもともと備わっている認識の力」のこと。

「批判」

=「人間が知り得る限界がどこにあるかを吟味すること」

 (悪口を言うことではない)

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