善の研究 完全版2 2022年10月22日

フェイスブックに「アクセスだけでもしてください」とお願い文を載せたところピアニストの陽子ちゃんから「完全版も読ませてください」と嬉しいコメントをいただきましたので、これから順次貼り付けます。

 

NHK 100分で名著 

西田幾多郎・著「善の研究」書き起こし

2回 「善」とは何か

解説 批評家:若松英輔

 

2回目突入>

さあ、2回めも頑張ってみましょう。

それでは書き起こしです。

 

<序>

今から100年前に誕生した哲学書「善の研究」。作者の西田幾多郎は人生の悲しみや苦悩を出発点として「真に生きることが可能かどうか」を問い続けた。

「善とは一言で言えば人格の実現である」

2回は西田の考えた善の思想について読み解いていく。

 

<第2回 「善」とは何か>

司会者

2回でいよいよタイトルに入っている「善」とはなにかですけど、「善悪」の善と捉えていいんですか?

 

若松

いや、そこが先ず一番大きなハードル。西田は「善は我々の中に『種』のように存在していてそれが開花していく可能性」をこの本で読んでいける。

 

伊集院

漢字にとらわれて「これは良いことの話なんだ」と思わないほうがいいですね。

 

若松

そうですね。

 

①自己について(第4篇の「宗教」を振り返りながら)

西田は宗教を「大いなる働き」と捉えていた。そのうえで大いなるものを求めるのは真の自己に出会いたいという要求だと考える。大いなるものの前で人は自らの限界を知り自分が絶対的な存在ではないと自覚する。そして「己は小さきものだ」と思いいたり、大いなるものに畏怖を持って向き合う、その時自己の根底で可能性が開花し、人間は真の自己になる。それを西田は「善」とした。

 

「かく考えて見れば意思の発達完成は直ちに自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成self-realizationであるということができる。即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発展を遂げるのが最上の善である」                 (第三篇 善 第九章 善)

 

伊集院

また前半ついていけるかなと思ったら、後半おいていかれましたね。

 

司会者

私達の考える宗教とは違いましたね。

 

若松

現代人は宗教というと、ある宗派だと思ってしまう。そうではなくて、宗教というのは「おおいなるものからの呼びかけ」くらいに思っていただけばいいんじゃないでしょうか。

皆さん、手のひらを出していただくと、現代の宗教と西田の言う宗教との違いは、指が一つ一つの宗派的な宗教。仏教とかキリスト教とか。で、手のひらが西田の言う宗教。

 

伊集院

なるほど、僕はもともと無宗教なんだけど、この番組でいろんな宗教の本とか読ませていただくと、なにか言っている根底はみんな同じって気がするんですね。それは人々が暮らしていくためにみたいなことだから、納得はします。

 

司会者

西田の言う「善」としては、善=人格の実現 なんですね。

若松

善というのは人格、すなわち人間であることの可能性でう。それが実現・開花することが善なんだ。それが西田の考え方です。

 

伊集院

自己実現、というのは今よく「自己啓セミナー」なんてよく耳にする言葉なんですけど・・・

 

若松

全く違います。むしろ正反対だと思います。現代の私達は自分が元気になれば・幸せになればと考えるのが自己です。西田はそうは考えていなくて人と不可分な、分けることのできない関係こそが自己なんだ。

 

伊集院

おんなじ言葉だけに難しいですね。僕が言った方の自己実現は、きちんとした目標を立ててそれを達成しましょうっていう風に使われてるんですけど…

 

若松

むしろ、そういうことを全部捨てたところから始まっていくのが西田の言う自己。私を手放していく、私であろうとするところから開かれていく。そこが西田の哲学の大変重要なところ。

 

伊集院

そもそも自分の根底にシンプルに自己はあると言ってるんですか?

 

若松

あるんですけれど多くの人はそれを知らない。もう一つは、自己というものは自分だけの力では存在していない。

 

伊集院

人間って群れで生きる動物じゃないですか。人間は群れで行動できるようにプログラムされてるような気がするんです。根底には群れとして自然の摂理にかなった行動ができるようになってるんじゃないか。

 

若松

そうなんです。私達はあまりに自分らしくあろうとするあまり、かえって自分らしくなくなるんです。

 

伊集院

わかる気がします。自分らしくなろう、自分はこういう人間のはずだなんて考えるとどんどん不自然になる。

 

若松

私達は不完全なので、自分が正しいと思うことが絶対の善ではないんです。その人にとって良いことでも、意見の違う人にとっては正反対のことになるんです。私達は哲学の原点に立つときに、自分の中に今ここに絶対的なものはないんだというところからスタートするのがとても重要なこと。

 

②善は行為である

 

「善とは自己の内面的要求を満足する者をいうので(略)これをまんぞくすること、即ち人格の実現というのが我々に取りて絶対的善である。而してこの人格の要求とは意識の統一力であると共に実在の根底における無限なる統一力の発現である。善はかくの如き者であるとすればこれより善行為とは如何なる行為であるかを定めることができると思う」                  (第三編 善 第十一章 善行為の動機)

 

「善とは考えるものではなく表すもの。行為によって体現されるべきもの」と西田は考えた。その行為とは私達の普段の行動とは違う。表層意識と深層意識が一つとなり行為するとき初めて善への道が開かれるという。

 

「富貴、権力、健康、技能、学識、それ自身において善なるものではない、もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。そこで絶対的善行とは人格の実現そのものを目的とした即ち意思統一そのもののための働いた行為でなければならぬ」

(第三編 善 第十一章 善行為の動機)

 

人格的要求とは人間を人間足らしめている働きのこと。それに従っているとき私達は自ずから自分だけでなく他者の存在も尊ぶことができる。しかし、人格的要求に反したとき、つまり、他人を尊ぶことができないとき、たとえ健康や学識など一見善なるものでも容易に悪とつながると西田は警鐘を鳴らす。

 

司会者

善は行為をしているときにある言ってましたね。

 

若松

考えるだけじゃない状態が行為。あともう一つは、行為のときには必ず他者がいる。

日本に臨床心理学を紹介してくださった河合隼雄さん(19282007)あるいはユングによると、我々の意識は層をなしている。我々はふつう意識というと個人の意識と思いがちですけど、私達の心の深いところでは、もともと他者とつながってるんじゃないか。



西田が善というのは普遍的無意識の層まで入って、我々の中にあるものが開花したら何かが始まるんじゃないか。私達は深くなればなるほど開かれていくという習性を持っている。

(例えば)怒っているとき私たちはとても狭いところにいる。もう少し心を深めていくと未知の人たちと深くつながったりする。西田はまず1つのステップとしては小さな意味での私から離れていくことだと言っている。もう一つは、そこには必ず他者がいる。

 

伊集院

自分が自分のことしか考えてない場合は、西田の言う善には到底近づいてないですね。

 

司会者

西田はこう書いていますが。

「富貴、権力、健康、技能、学識、それ自身において善なるものではない、

もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。

そこで絶対的善行とは人格の実現そのものを目的とした即ち

意思統一そのもののための働いた行為でなければならぬ

(第三編 善 第十一章 善行為の動機)

若松

「人格的要求」とは他者の人格を尊ぶこと。他者を大事に思わなかったときは悪になるということ。

「意識」という言葉を西田が言うときには、普遍的意識まで含むもの。普遍的無意識のために働いた行為でなければならない。私にとって得であるとか、狭い世界の私達、家族だけにとって得だとかじゃなくて、もっと深いところで人間になにかできたとき、それは本当の善なんだ。

 

この言葉は見方によってはとっても希望に満ちた言葉なんです。誰でもここまで行けるんだよ。これが、人格の実現なんです。

 

伊集院

見失っている人も掘れてない人もいるけれど、自分の奥底には流れてるんですよっていうことですか。

 

若松

そういうことです。

 

「善とは一言にて云えば人格の実現である。これお家より見れば、真摯なる要求の満足、即ち意識統一であって、その極みは自他相忘れ、主客相没するという所に到らねばならぬ。外に現れたる事実として見れば小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達するのである」 

  (第三編 善 第十三章 完全なる善行)

 

人格を実現することは自己を深めていくことだ。自己を深めるとそれだけ

自分が他者に開かれていく。その開かれ方が最も深くなったとき、それは

人類にまでつながる。人類の中には同時代の人間だけでなく、過去や未来

も含む。完全なる善良は果てしなく大きなものへの愛に昇華する。

そんな壮大なる善良は極めて難しいように思えるが、だれにでもできるい

と西田は言う。

 

「かくの如き完全なる善行は一方から見れば極めて難事の様であるがまた一方より見れば誰にもできなければならぬことである。道徳のことは自己の外にあるものを求むるのではない、ただ自己にあるものを見出すのである」

(第三編 善 第十三章 完全なる善行)

 

若松

西田の哲学は一見すると「私を掘っていく」イメージがあると思うんですけど私を早々に超えて 私→私達→人類・宇宙

ってところへ行けっていうのが西田の考えなんです。

 

伊集院

子供が喜ぶ顔見てるのって楽しいじゃないですか。これは子供も自分もつながっている思想。で、子供のお友達の機嫌もいいほうがおそらく子供も喜ぶ。そうすると、お友達のお母さんもつながっていく。そうして掘っていくと下の方はお芋みたいにすごくつながってる。

 

司会者

西田はさらにこう言ってます。

「・・・道徳のことは自己の外にあるものを求むるのではない、ただ自己にあるものを見出すのである」

これはどういうことでしょうか?

 

若松

ここは珍しく端的に言ってくれてますが、発見するわけですから、あるんです。善というものは私達が努力して作り上げていくものではなくてすでにあるものを発見していく。

私達はもしかしたら善という言葉よりも「生きる意味」くらいに変えると少しわかりやすいかもしれない。生きる意味がもう私達の中にあってそれを私達が見つけていくのであって、生きる意味を私達がつくっていくんじゃない。

 

第三編「善」の最後を西田はこう締めくくっている。

 

 「終わりに臨んで一言しておく。実地上真の善とは唯一つあるのみである、即ち真の自己を知ると言うに尽きている。我々の真の自己は宇宙の本体である。真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きている。而して真の自己を知り神と合する法はただ主客合一の力を自得するにあるのみである」

   (第三編 善 第十三章 完全なる善行)

 

そして西田はこんな逸話を紹介している。

「中世の画家ジョットはローマ法王の前で『画力を見せよ』と命じられた時、ただ一円を描いた、という。シンプルで欠けることのない丸い円。我々は道徳の上でこのジョットの一円形を得ねばならない」

と書いて善の章は終わっている。  

 

司会者

「宇宙の本体と融合し神意と冥合する」

これはどういう意味ですか?

 

若松

一見壮大に見えるんですけどまず私達自身が宇宙の一部です。ここも宇宙

です。現代人は宇宙にロケットで行けるようになって、ここが宇宙だって

ことを忘れちゃった。

現代の言葉に置き換えると、宇宙=無限 ってことでしょうね。

西田における神っていうのは「大いなるもの」ということなんですけど、

ここで大切なのは「言葉を超えた世界で一つになる」ということなんです。

言葉を超えて無限と一つになる=善

無限というのは人類なんです。そういう物に開かれていた時私達は善というものを求めることができるんだということなんです。

 

伊集院

○というのはどういうことでしょう?

 

若松

大変素朴なものだということでしょうね。完全な円を描けるという素朴な行為の中にあらゆる要素があるんだということ。(西田も描いているが)禅宗のお坊さんたちもよく円を描いている。私達が善を求めていくときも複雑な多くの言葉を持って説明しなければいけないものではなくて大変素朴な行為の中に善が現れるんだということを西田は伝えようとしてくれてるんじゃないでしょうか。

私達は多分何者かに生かされてるんだと思うんです。しかし、どう生かされているか、こっちも大変大事だと思うんです。私達は両方考えていかなきゃならないんじゃないかと思います。

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