NHK 100分で名著
西田幾多郎・著「善の研究」書き起こし
第3回 「純粋経験」と「実在」
解説 批評家:若松英輔
<3回目に突入>
今日は2019年10月22日火曜日。
令和の天皇陛下即位礼正殿の儀でお休み。
先日からの雨で被害が大きく、この日のパレードは中止になったようですが、儀式は行われるため、お休みはそのまま。皇室大好き西野真理としては正午頃から行われる儀式はテレビにかじりついて観なければなりませんので、早朝から昨夜の番組書き起こしスタートです。
<第3回 純粋経験と実在>
司会者
そもそも「善の研究」のタイトル、最初は「純粋経験の実在」だったんですね。
若松
そうですね。この本の主題は「実在とはなにか」ということのほうが大事。ところが本を出版するときになっていろいろな事情があって「善の研究」
になっていくんです。そこでちょっと、その重大さを、西田自身の言葉で確かめてみます。
「善の研究」の序文です。
純粋経験を唯一「実在」としてすべてを説明してみたいというのが、余が大分前から有(も)っていた考えであった。
という風に西田は言うわけです。「純粋経験」と「実在」というのは言葉と
しては違うんだけども実はひとつなんだということを頭の片隅に置いておいていただけるといいんじゃないかなと。
私はなんの影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる、物質の世界という如きものは、これから考えられたものにすぎないという考えを持っていた。
まだ高等学校の学生であった頃金沢の街を歩きながら、夢見る如くかかる考えに耽ったことが今も思い出される。その頃の考えがこの善の基ともなったかと思う。 (「善の研究」版を新にするにあたって)
「実在は現実そのままのものでなければならない」
若いときから西田は真の実在とは日常の直感的経験であるはずだと感じてた。そして
「実在を捉えるには世界をありのままに感じなければならない」
と繰り返し述べている。しかしそれは容易ではない。価値観や世界観など様々なものが覆い隠しているからだ。そのため西田は主観と客観という対立が立ち上がる以前の直接的な意識・純粋経験に注目した。
例えばここにある1個のリンゴはどのリンゴとも違う固有のリンゴ。しかし一度「これは赤いリンゴである」と認識するとたちまち一般化され題名化されたありふれたリンゴになってしまう。そうではなく、人間が認識し言葉で表す前のリンゴそのものを感じること、その純粋経験で捉えたものこそが実在であり、ものをあらしめている働きのこと。
伊集院
こんな難しいことを学生時代にずっと金沢で考えていたんですか?
若松
ずっと歩き回って(笑)。今の西田の哲学の原点というのは、とても日常の生活に根付いているんです。そこを私達が言葉で語ろうとすると、とたんに難しくなるということがホントかもしれませんね。
伊集院
なんとなく直感的に入った食堂がめちゃくちゃ美味かった。それをネットで調べると評価サイトで点数が何点と説明が書いてあったときに意外と低い時、「あれ、あんまり美味しくなかったんじゃないか」って、よくわかんなくなる。人の言うことに流されて、最初の「美味ッ!」がどこか行くってことがありますよね。それに似たことっていうかその逆を言ってましたよね。
若松
おっしゃるとおりです。直感の方へ行けってことを西田は言っている。私達はどうしても数字や量で表されたほうに従っちゃうんです。そうじゃない方を探ってみようというのが西田の「純粋経験」であり「実在」のあり方なんです。
~実在~
・現実そのままのもの
・世界をあらしめている働き(世界の真相)
・「純粋経験」を通じてのみ経験される
・知性だけでは捉えきれない
若松
ちょっと気をつけなきゃいけないのは、私達は現実って言っちゃうと、自分が見たものっていう風に思ってしまいます。でも西田の言う現実はそうじゃない。私達の判断の入る前なんです。ちょっとリンゴを出してみましょう。これは何色?
伊集院
赤
若松
私達は自分で口に出した言葉の方に行っちゃうんです。感じた方ではなくて。
伊集院
それがすごくわかるのは、(ラジオの仕事をしていて)ラジオって言わなきゃ存在しないわけですよ。だからここにあるものを、例えばリンゴを「ここにリンゴがありましてね」って言うんですよ。言った途端にこのリンゴのことじゃなくなるっていうのはよくわかるんです。似たようなものをみんなで思い浮かべているだけの話になったり。
若松
言葉で説明しようとすると途端に難しくなる。だけど、難しくないものはとても素朴なものは奥にある。
今日、もう1個リンゴを持ってきてみたんですけど、これは何色ですか?
よく似てますけど明らかに番う。私達は「赤」とかという時、実はですね赤という色だけじゃなくて「色そのもの」みたいなものを感じてるんです。
伊集院
それは下手すれば色ですらないっていうか、色っていうのは便宜上そう言っただけで、もっと、何か全てを感じてる。
若松
そうなんです。それがここにある「世界をあらしめている働き」
司会者
「純粋経験」と同じものって言っていいんですか?
若松
同じものと言うよりも「粋経験」を通じてのみ実在を認識できるんだという言い方のほうが正しいかも。
伊集院
存在は、自分が認めようと認めまいとしてるんですよね。存在しているということが、今僕が純粋経験をしているということなんですね。
純粋というのは、普通に経験と言って居る者もその実は何らかの思想を交えて居るから、豪も思慮分別を加えない真に経験其儘(そのまま)の状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那 (略) 我がこれを感じて居るとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前を言うのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下(じか)に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一して居る。これが経験の最醇なるものである。
(第一編 純粋経験 第一章 純粋経験)
未だ判断が加わらず、主観と客観が合一している直接的経験、これが純粋経験なのです。
若松
ここで大事なのが「直に経験する」。私達は経験する時以外に色んなものを交えている。私達はいろんな眼鏡をつけて世界を見ている。如何ともし難いですが「日本語」というのも一つの眼鏡なんです。いい悪いではない、言葉ってものも一つの眼鏡なんですけど、自分の価値観、人生観、いろんな眼鏡がある。違う人が見れば違う面を見てるということを私達はもう一度思い出さなくちゃいけない。
伊集院
純粋経験・直接経験自体を完全に止めたり捉えることは無理だとしても、今の状態が、そうではなくなってる事はわかる。そういうことの存在を知っていれば、随分離れたか近いかはわかる。
こないだ、生まれて初めて車いすラグビーの取材があったんです。車イスラグビーのルールも全くわかんない。その状態で車イスと車イスがぶつかる音を聞いて、その瞬間にわかったことがいっぱいあったんです。ルールじゃなくて。今言葉に出すと「怖い」とか「とてつもない衝撃がおきてる」とかになるけど、その音を聞くとそれが一瞬で理解できて、その後ルールを聞いてゲームがわかってくるんですけど、多分あの音の瞬間が純粋経験に近くて、あの音そのものは、あの競技そのものを理解させる。この音に俺は震えてるってことはわかった。
若松
それは何だったんですか?と聞いた途端に言葉で返してくださいましたよね。そうすると、だんだんだんだん薄まっていく。西田は、それはちょっと違うかも、説明するごとに出来事を小さくしてるんじゃないか。言葉という枠が。
先程のラグビーのことは、あの音は言葉にはならないんですよね。近代は色んなものを言葉の枠に入れて考えてきた。あるいは科学の枠っていうのもあります。
伊集院
俺らは映像の枠なのかもしれない。
若松
眼鏡を外していくっていうのは最後まで難しいかもしれない。でも、眼鏡をつけてない状態が、私達の日常の深い所にいつもあるんだと、でも誰もあまり意識しない、自覚しないで生きているってことですね。
「善の研究」が出版されたのは明治から大正へと時代が移り変わろうとしていた頃。急速な近代化は様々な歪を生み出していた。青年たちは「自己とはなにか」「いかに生きるべきか」といった哲学的苦悩にさいなまれるようになる。彼らのバイブルが「善の研究」だった。当時の流行作家・倉田百三はこの本との出会いをこう書いている。
「私は何心無く其の序文を読み始めた。しばらくして私の瞳は活字の上に釘付けにされた。見よ、『個人あって経験有るにあらず。経験あって個人有るのである。個人的区別よりも経験が根本的であるという考えから独我論を脱することができた。』とありありと鮮やかに活字に書いてあるではないか。独我論を脱することができた?!この数文字が私の網膜に焦げ付くほどに強く映った。(略)涙がひとりでに頬を伝った」(愛と認識との出発)
経験は個人に属するのではなく、経験があって個人というものが生まれる。その経験とは純粋経験と日常経験が折り重なったもの。
ここに真の実在を見出した西田の哲学が、西洋の「人間中心」の世界観を脱した哲学と新鮮に受け止められた。そして「不完全な個人である私でも経験次第で変化していけるのだ」と、当時の青年たちを強く勇気づけるものとなった。
伊集院
江戸時代が終わって西洋のものがどんどんはいってきて、みんなワクワクしていた時、「独我論」が自分にあまりフィットしないぞって思った人はいっぱいいた?
若松
そうですね。「私がどう生きるべきか」ってことじゃ道が見えてこないって人がいっぱいいたんですね。倉田百三は心に大きな病をいっぱい抱えてそのときに西田と出会って、今お話があったような経験をしていくわけなんです。其のときに彼が考えていたのも、「私がどう生きるべきか」常に「私が」が問題だったわけですよね。そうじゃなくて経験があってお前は変わっていけるんだ、お前が意思することが問題じゃなくて、もっと違う力がお前を変えていく、そういう人生の場面も有るんだよ、っていうことですよね。
伊集院
人生と真摯に向き合うがゆえに、「お前には自分ってものはないのか!」ってことに悩んじゃう人が今もいっぱいいます。
若松
その自分ってものが単独で存在しているのであればそれでもいいんですが、そうじゃないですよね。「独我論」っていうのはどこかそういうところがあるんです。「私が」ってことが孤立したような。そうではない広い所に西田の言葉が倉田百三を導いていった。倉田百三が経験したのはほんとうの意味での自由だと思うんです。
~裸の眼で見る~
純粋経験をした時人は真の意味で物を見、物を知ることができる。そんな状態を西田は「知的直観」と名付けた。それは意識の極めて統一された状態のこと。例えば一生懸命に断崖をよじ登るときや音楽家が熟練した曲を演奏する時、つまり無心になっている時に知的直観が働く。中でも芸術は直感への大きな入口。
モーツァルトは曲を作る時どんなに長い曲でも立体的にその曲を頭の中にイメージする事ができたといいます。このように私と対象が一体となり実在に触れる時、知的直観が開かれる。
人間運動で知られる思想家の柳宗悦は西田のこの哲学に大きな影響を受けた。
「誰も物を見るという。(略)どう見たのか。じかに見たのである。『じかに』ということが他の見方とは違う。じかにものが目に映れば素晴らしいのである。大方の人は何かを通して眺めてしまう。いつも眼と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、ある者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める」 (柳宗悦 茶道論集)
本当に物を見るにはどうすべきか。柳は「直に見なくてはならない」といいます。その時思想や嗜好、習慣はそれを妨げようとします。裸の目で世界と向き合う時初めて美が現れる。柳の思想は西田の説く知的直観の哲学と深く通じている。
若松
柳宗悦という人は「民芸」という言葉を作った人。「民芸」というものは柳宗悦が「民芸」という言葉を付ける前はガラクタだったんです。「民芸」というのは名もなき人が作ったものなんですんね。名もなき人の作ったものを私達が直に見ることができればそこに本当の美を見出すことができる。我々は実は「誰が作ったか」「これはいくらである」とか「前に誰が持ってた」とかそういう事を見てる。そうじゃない、物そのものを見ろ、と言ってるわけ。
司会者
直に見ることを妨げるものとして3つ挙げていますね。
思想・嗜好・習慣
若松
思想というのは確かにある角度から私達にとてもよく世界を見せてくれる。使い方を間違えると少し大変なことになる。
嗜好っていうのは簡単に言うと好き嫌い。私達のとても嫌いな人がとても大事なことを言うことがありますね。好き嫌いで物を見ると、私達はとても大事なものを見失うかもしれない。
習慣というのは、例えば、この本読んだことがあるからいいよ、ということ。でも、昨日の私と今日の私は違うから、今日読んだらもう、天地がひっくり返るようなことがあるかもしれない。柳は「今日出会うこととあした出会うことは全く違う。習慣的に単に繰り返しているって思うことは本当の経験から遠ざかることになる」と言っている。
こういう物を取り外して裸の眼で物を見てみようといている。
司会者
西田は純粋経験を妨げるものとして3つ挙げています。
思想・思慮分別・判断
若松
純粋経験というのは時間が入らないということを私達は見てきましたね。判断というのは時間がかかっていろんな物を判断しているわけですよ。時間が入る隙間がないような経験に基づかなきゃだめですよと言っている。私達が判断する時私達は様々な経験則で判断している。そうじゃないもので世界と向き合って行くのがとても大事だよと言っている。
伊集院
自分が今間違いないって思ってることや見たんだと思ってることの中にこれ(思想など)は入ってやしませんか?ということをいつも考えようってことを言ってる。これは今日からできそうだ。
司会者
どれも普段からあるんだよ、って言ってもらってるような気がしましたね。
伊集院
当たり前にあるんだけど、がゆえに見つけづらい、見えにくいってことはありますよね。
若松
私達はいつの間にか日常というものを低い所に置いてしまったのかもしれない。非日常の方が価値が高くて日常のほうが価値が低いっていつの間にかなったかもしれない。西田はそこのところをひっくり返っそうとしているのは間違いないと思う。
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