「象は鼻が長い」の文法 YouTube「ゆる言語学ラジオ」より 2024年8月6日(火)

※これはFMでも喋る目的でYouTubeチャンネル「ゆる言語学ラジオ」から書き起こしたものです。(全部ではありません)お聞きになりたい方はFMかほくで検索を。本物を聞きたい方はYouTubeで「ゆる言語学ラジオ」とけんさくしておたのしみください。

↓ここからが放送原稿

私の大好きなYouTubeチャンネルの一つ「ゆる言語学ラジオ」から「象は鼻が長い」という文章について、そしてそのことについてある考えを提唱した「象は鼻が長い 日本文法入門」という本の著者・三上章(みかみあきら)について取り上げたものを、FMかほくでお話しようと思い書き取ったものです。

<このチャンネルでお話されている方について(概要欄から貼り付け)>
水野太貴
名古屋大学文学部卒。専門は言語学。某大手出版社で編集者として勤務。言語学の知識が本業に活きてるかと思いきや、そうでもない。

堀元見
慶應義塾大学理工学部卒。専門は情報工学。WEBにコンテンツを作り散らかすことで生計を立てている。現在の主な収入源は「アカデミックに人の悪口を書くnote有料マガジン」

<文法3つの謎>
「象は鼻が長い」
この文章の主語は?・・・象?鼻?
これがとんでもない論争を巻き起こしてきました。そして今も未解決の一つ。
もう2つあります。
「僕はうなぎだ」
これはうなぎが主人公なのでなく、飲食店でうなぎを注文したとき「僕はうなぎだ」という。これはどうなっているのでしょうか?
これについて研究した本はそんまんま「僕はうなぎだの文法」という本を奥津敬一郎さんが書いていらっしゃいます。
次に
「こんにゃくは太らない」
何が主語?こんにゃくではないし・・・
この3つが文法の中で大きな謎とされています。

<まず「僕はうなぎだ」から>
この文章は、「日本語は論理的でない」ということの証拠として使われた過去があります。森有正という哲学者が本の中で「日本人がレストランで注文するとき『僕は魚です』なんて言ったら、海外でバカにされてしまうよ、日本人はこんなことやってる」と書いたりもしています。そんな事もあって政治家の森有礼(ありのり)などは、「日本語廃止論」と唱えたりもしました。簡易英語を作ろうとさえしたようです。ただ、この時代は日本が欧米に比べて遅れているという意識が強く、日本人が遅れている理由の一つは「漢字」だと言われていました。漢字のせいで頭のメモリーをたくさん使ってしまうという理由からです。逓信省の前島密、この人は1円切手のあの顔の人です。この人は熱心な漢字廃止論者でした。

<大槻文彦の提唱>
大槻文彦は1897年にたった一人で「言海」という辞書を作ったという超人。この人が
「日本語の文は主語と説明語からなる」と定義しました。
例えば「東京の都は面積広く人口多し」は、東京、面積、人口の3つが主語。こういうように、二重主語文を提唱しました。
しかしこれは、草野清民(くさのきよたみ)たちから否定されます。

<橋本文法>
1935年に橋本進吉の「橋本文法」で新たな説明がされます。これは現在の学校の教科書で習う文法の土台になっているもの。しかし今現在言語学の中に、学校文法の批判は山ほどあるそうです。
橋本文法の中で、「象は鼻が長い」は「象 がまず主語。次の鼻が長い、の中に鼻が主語で長いが述語。そして、鼻が長いを一つの述語としてくくる」という説明がされました。

<奥津敬一郎の提唱>
奥津敬一郎が1978年に「だ」は意味が曖昧だという説明をします。「だ」という断定の助動詞は意味が曖昧で、文脈次第でどうとでも取れます。だから「僕はうなぎだ」の本質は「だ」にあると説明したのです。
「僕はうなぎだ」・僕はうなぎを食べる
         ・僕はうなぎを演じる
                  ・僕はうなぎを釣った
みたいに、いろんな文章を省略、または言い換えできるからです。

<三上章の登場>
ここで三上章が登場します。三上章は本質を「は」に見出した。象もうなぎもこんにゃくも全部「は」が入っています。「は」と「が」は主語を表すとき使われるが、ぜんぜん違う。ジャンルが違うのです。
「が」は場所をあわわす「で」「に」、起点を表す「から」と同じ格助詞。
「は」は「こそ」や係り結びをするようなものと同じ副助詞。
三上の主張を一言でいうと「主語抹殺論」。元々日本語には主語という概念がなかったのです。ヨーロッパの文法研究を借りてきただけ。日本語の文法なんだから、ヨーロッパの文法理論に合わないものは外していかなければならなかったのです。
「は」が表すのは主語ではなく主題。「私は」と言ったときの私は、
「私について今から話しますよ」
というこのときに使います。そうして「私」はその文章の中に現れる他の言葉より一段高い特権的な位置にある。この効用は仮に「。」読点がついても止まりません。この権利は保持されたまま進みます。
例えば夏目漱石の「我輩は猫である」。この本は冒頭の「我輩は猫である。名前はまだない。」と続きますが「吾輩」は2文目に出てこなくてもこの猫が「吾輩」であることは続いています。つまり特権的な位置にあるのです。わざわざ「吾輩の名前はまだない」と言わなくてもこの猫がこのあと猫のことを色々いうけど、いちいち吾輩とは言いいません。これが三上の言う
「『。』を超えて『は』の権力は維持される」
ということなのです。

「太郎は学生である」と「太郎が学生である」の違いは「太郎は」の場合は「太郎」は主語ではなく、主題。その前に疑問文をつけるとわかりやすくなります。
「誰が学生ですか?」のと聞かれたら「太郎は学生です」ではなく「太郎が学生です」といいま。でも「太郎はどんな人ですか?」と聞かれたら「太郎」は「は」のお陰で特権的に押し上げられているので、「太郎が学生です」とは答えません。「は」と「が」は使われる場面が全く違います。「は」には注目を集める効果があるのです。

その視点で考えると「こんにゃくは太らない」は「こんにゃくについて話しますよ」と主題がこんにゃくであることを提示しています。
一方「は」は目的語になることもあります。例えば「私はお肉は食べた」という文章。「は」が2つ出てきますが、「お肉は」の「は」は主題ではなく目的語。お肉は食べたけど、お魚は食べなかった。みたいな。
「は」は場所を表す助詞「に」「で」にくっついて「には」「では」。東京には、とか、ここではのような使われ方をします。それは「が」は格助詞で「は」が副助詞たる所以。「は」にはその後にいろんな言葉がついてこれます。
たしかに「アメリカでは~」と話し始めたら「これからアメリカの話なんだなあ」と思います。でも「アメリカで」だったら「アメリカで太郎は」と続きます。「では」が付くことで特権的な地位に登るのです。

<英語文法と日本語文法>
最初の方に出てきた言語学者が主語について論争していたのは、結局欧米から持ち込まれた主語という概念に日本語を当てはめようとしたからです。また当時人気のあった言語学者チョムスキーが
「主語はどんな言語にもある」
と言ったからというのも一つです。チョムスキーは「言語は人類共通の現象だ」と言っていて、言語の中で人類が普遍的に持つ特徴を考えたとき「主語」が出てきました。主語のない文章はないだろうと考えたのです。他にも「時制」「左右」の概念もどんな言語にもあると考えました。当時はこの考え方が主流だったのです。その点三上章は画期的でした。
英語に主語が必要なのは、主語が決まらないと動詞の活用が決まらないから。
イタリア語だと動詞の形で主語がわかるから主語を書きません。主語がなくて成立してしまう言語もたくさんあるのです。しかし英語というレンズを通して見てしまったために最初のような論争になってしまいました。

<三上章について>
三上の学説は言語学会であまり注目されませんでした。理由の一つは三上が日本語学者ではなかったからだと考えられます。三上章は高校の数学の先生だったのです。一介のアマチュア言語学者、自分でも「街の語学者」とか「日曜文法家」と名乗ったりしています。
簡単な経歴をご紹介すると
1903年広島生まれ。高校首席入学、東大の建築学科卒。叔父・三上義雄は数学者。日本ではあまり相手にされなかったが、48歳のとき金田一春彦に評価され本の出版を勧められています。実際その2年後日本を出しています。その後ハーバード大学には招聘されるが失意のうちに死んでいく。山田孝雄(よしお)のように広めようとしてくれた人もいるにはいました。
もし三上章についてもっと知りたい人がいらっしゃいましたら金谷武洋という三上文法の研究者が書かれた「主語を抹殺した男」という本をお読みください。ただしこの本は絶版になっているようですからお読みになれるかどうかわかりません。

実は私、アマゾンでこの本、中古で見つけて注文しました。
届くの、楽しみです。


 

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