このブログは
50~51歳で声帯を痛めた時のお話(過去のエッセイより)その2 2025年3月27日(木)
をおよみになってからどうぞ。
「絶不調からの脱出?」総集編
(2013年3月頃・51歳のエッセイ)
<はじめに>
「不調など自分にはありえない」という健康を過信した西野真理に、声帯のトラブルという天罰が下った50歳半ばから51歳初頭。
その過信とちょっぴりの絶望との合間に、いくつかのそれに関するエッセイも書いた。が、今こうして不調の時を過ぎて冷静に見えてくることも多く、これを書き残すことは今後の自分のためであることはもちろん、「健康過信中」の多くの皆様にも有効かと考え、極力正直に一生懸命思い出して書いてみることにした。
<最初の警告>
「今にして思えば」の一言に尽きるが、あの時のあれは間違いなく今回のそれだった。そう、エッセイPART8に書き残している
「ドキュメンタリー 病休初体験」
西野真理45歳の6月に起きた一件・・・・
その1週間前あたりから耳が妙で、それを放っておいた木曜日の午後、学校で調子が悪くなり、保健室で吐き、病院へ運ばれで点滴を受けた。翌日念のため大きな病院へ行ったが、その時にはすっかり良くなっていて、「な~んだ」って思っておしまい。
今になって改めてエッセイを読み返してみると、たしかにドキュメンタリー風に書かれていて、書かれているそのことは正しいが、実は自分にとって不利(?)っていうか、自分が健康じゃないって思われてしまいそうなことは書かないようにしようとしていることが思い出される。
それは、その時のエッセイには書かなかった、点滴を受けた病院でドクターから言われた一言。
「過労じゃありませんか?」
その時私はその言葉をきっぱりと否定したのだった。
「自分に過労などありえない」
という思い込みと自信から。
「間違いなく『過労』である」
と今なら書ける。
それも喉の不調を伴った過労。
ちょうどそのころ、すべてのクラスの音楽の授業で歌のテストを行なっていた。それも、デュエットテスト。私がピアノを弾きながら、生徒に主旋律を歌わせながら、私が副旋律を一緒に歌いながら採点するという方式。およそ450人の生徒とそれをやった。
しかもその時ちょっと風邪気味だった。
さらにそのころ、総合学習の「職場体験学習」のために、生徒の体験職場決め集会で、くじを引いた順番にすべての生徒の希望場所をくじ順に決めていく係をやった。300人強の生徒に。
これは倒れる。
でも私は45歳の西野真理を過信していた。
しかも幸か不幸か翌日には回復してしまい(回復したように見えた)、そのことを大きく捉えようとはしなかった。
<47歳の警告>
一般には40肩とか50肩とか言われる症状で、加茂整形外科の加茂先生の「筋痛症」という考えを知ってからの私なら、これは筋痛症で加茂先生に治療していただけばすぐ治るとわかるのだが、この頃は知らなかったので仕方がない。
それにしても、やはり一般に言われるように、筋肉にガタが来る年頃になっているという警告と受け取ればよかった。
が、またしても「過労」「加齢」を受け止めたくない私は
「ピアノの弾き方が悪い」
「指揮法の授業が続いた」
「庭仕事のしすぎ」
と言い訳をしていた。
つまり、腕や肩が痛いということは、体中の筋肉はどこだってそれなりに平等に疲れているはずだ。
特に喉。
だがこの頃、自分の体の中でも特に喉に関して私は過信中の過信をしていた。喉に申し分けない。
<不調中の無理>
50歳の夏、特に調子が良かった。
その調子に乗っかっていた9月の終わり、ちょっと風邪をひいた。
これがすべての始まり。
この頃からオペラ「天狗と彦市」の練習が始まり、ちょっとしたコンサートを頼まれ、合唱コンクールの時期でもあり喉を休ませることができなかった。
いや、できなくない。
今ならそう言える。
調子が悪ければ練習は程々で過ごして本番に備えればいいし、授業も先生が必ず歌わなければできないというものではないのだ。
でも、私にはそんな智恵がなかった。
さらにその後、またちょっと歌わなければならないことがあって、喉は悲鳴を上げたのだった。
状態としては「声帯結節」の初期。
声を出すと閉じる声帯の無理な使い方によって、手に例えると「ペンだこ」みたいなものが声帯左右対象にできたのが結節。私のは、これが片方だけ。
小さな声帯に小さな突起が出来ればちゃんと声帯が閉じなくなって、ちゃんとした声が出なくなる。
治療法はひとつ。
声を出さない。
でも本番はある。
だから無理して出す。
ますます結節はひどくなる。
ストレスが溜まる。
中心性漿液性脈絡網膜症にかかる。(別記。エッセイPART11)
眼科でビタミン剤を大量にいただく。この薬を声帯のためと思って飲む。
<悪あがき>
・漢方薬を飲んでみる・・・「響声破笛丸料」ちょっと効果あり。結節が治るわけではない が喉は楽になる。
・また漢方薬を飲んでみる・・・「麦門冬湯」う~ん。
・酵素風呂に行ってみる。1回きり。(別記エッセイ。エッセイPART11)
・マスクをする・・・人と喋らない効果はある。
・喉に蒸気をあてる・・・効果が本当にあるかどうかわからないが、いい気
がする。しかも、購入した機械の本職は美顔器。
これは現在も使っている。
・京大医学部耳鼻咽喉科音声外来予約・・・金沢医科大学で紹介状をいただき、4月18日に予約を入れ、電車のチケットもとってあったが、結果的にキャンセル。予約して安心したという精神的効果はあり。後述参照。
・歌の練習・・・「これは不調じゃなくて練習不足で歌えないんだ」と逆切れ気味の発想でお正月開けに練習を再開。これは最低!絶対やってはいけない。これで回復が2週間遅れた…と思う。
<不調期の本番>
①不調初期
・9月~10月オペラ「天狗と彦市」練習と本番。なんとかやり過ごす。
②不調中期
・9月29日「野々市チャリティコンサート」。高い「ラ」は、苦しいが出る。
・10月19日オペラ「雪女」ナレーター 喋り声ガサガサ。低めの声設定。
③絶不調期
・11月22日 「レストラン チャリティコンサート」。アカペラだったため、
音をかなり下げ、トークも低めの声でなんとか◯
・12月下旬 生徒を連れて老人ホームを慰問。ドレスを着てティアラもつけてリコーダーを吹いた。あんな格好をして歌を歌わないなんて今思えば余程のことだ。が、一緒に行った先生から
「ドレスにティアラでリコーダーを吹いてもらうと、すごくいいもの聴いた気になりました」
と言われた。やっぱり衣装は大事。
・1月初旬 声帯の手術を考え始める。
・1月21日 1年前から楽しみにしていた「八ヶ岳声楽セミナー」応募締め切り日。お金も封筒に入れて用意してあったが、夕方までずっと考え続けて、申し込み断念。
・2月15日 紀尾井ホール「瑞穂の会」コンサート。全部3度下げ、本番前はなるべく喋らず喉を温存させて△。
・3月1日 「卒業祝い給食」の時、ドレスを着て3年生8クラスを回って歌う。これもアカペラだったため、生徒に調子の悪さは気づかれなかったようだが、正直この頃、歌への意欲が失われかけていた。毎年やってきたけれども、この年はやる気が起こらず、当日朝まで迷っていた。しかし、予想以上に生徒に喜ばれたことで、歌うことへの意欲を失わずに済んだ。
・3月7日 塚田先生による「福光南部小学校ボランティアコンサート」の司会兼ちょっと歌とリコーダー。これも、派手なドレスとリコーダーでなんとかごまかした。歌は「富士山」と「茶摘み」だけだったが、こんな曲さえ1音下げた。ボランティアとはいえ塚田先生とコンサートを初共演できたことや小学生の喜んでくれる姿に、絶不調ながら精神的にはとても癒された。
・???? 夜、見知らぬ人から電話があり「老人ホームでボランティア演奏をしてくれないか」と頼まれたが、「調子が悪いので」とお断りした。私としては考えられないことである。
<喉の筋肉治療>
そうだ、加茂先生だ。
「体に色々あるときは筋肉の疲労を考えなくてはいけない」
と、あんなに書いたり人に言ったりしているくせに、肝心なときに思い出さない。
「喉の筋肉を緩めてもらえばいい」
4月10日、加茂整形外科へ向かった。
事情を話すと、先生はちょうど声帯の辺りを押さえ
「この辺?」
「痛っ!」
と、そこへトリガーポイント注射(局所麻酔注射)。
嘘のように喉が楽になった。
<「病は気から」その1>
1つ目は、紀尾井ホールの本番。別記エッセイにも詳しいが、あんなに不調の中、とにかく歌ったこと。また、その演奏を「見て」下さった方から「楽しかった」という言葉をかけていただいたことで、もしこのまま喉が治らなかったとしても、この喉で何とかしていこうと前向きになれた。
<「病は気から」その2>
2つ目はのぞみちゃんのオペラ。
のぞみちゃんとは誰よりもたくさん共演している。でも、共演者というのは、その時同時にステージに居る、または、ステージ袖や楽屋にいるわけで、ちゃんと本番を見ることは意外にないのだ。
そこで以前から、のぞみちゃんの演奏会を聞きに行くチャンスを狙っていたが、そのチャンスがついにやってきた。4月13日に静岡で行われる静岡室内歌劇場の公演、オペラ「森は生きている」である。
このことに気づいた頃の私は、まだ不調の真最中で、とても人の演奏を聞きに行けるような精神状態ではなかった。それでも聞きに行こうと思えたのは、のぞみちゃん効果という他はない。
静岡室内歌劇場は有名でもなければ豊かでもない、手弁当でやっているオペラ団体である。(・・って、聞いたわけではないが、きっとそう)仕事をしながら、練習場所をさまよいながら、舞台衣装やセットを手作りしながら本番にこぎつけるのは並大抵ではないだろう。そして本番は昼の部と夜の部の2ステージ。
そこで主役(?かな。私には主役に見えた)の娘を演じたのぞみちゃんは、もうこの役のために生まれてきたようにピッタリ。その他の皆さんの熱演ももちろんで、2ステージとも見終えた私には、なんともいえない力が湧いていた。
<「病は気から」その3>
そしてその翌日。
「瑞穂の会 京都コンサート」が京都で開催された。
このことは、のぞみちゃんのコンサートを聴きに行く時点でわかっていた。しかし先にも書いたように、その時の私には「人の歌を聴く余裕」などなかった。そこで、わかっていたのに静岡からまっすぐ石川県に帰る電車のチケットを買っていた。
ところが、のぞみちゃんのオペラを聴いた翌日の私は、
「京都に行って『瑞穂の会』を聴かなくちゃ気分満々」
になっていた。
翌朝ホテルをさっさとチェックアウトし、静岡駅で京都周りのチケットに変更し、京都府民ホール「アルティ」へ向かった。京都御苑の隣にある素晴らしいホールである。
聴き終えた私は、歌う気満々になっていた。
<おわりに>
4月初旬には妄想さえできていなかった、毎年開催している「美女コン」。
毎年聴きに来てくださっている方から
「今年も夏にあるんですよね?」
と聞かれた時も
「ああ・・・あの・・考え中です」
と、ゴニョゴニョしていた。
が、こうなってくると突然「美女コン」計画始動。
また4月中旬、ちょうどこの頃学校では本格的に授業が開始されるが(それまでは係を決めたり集会があったり進級テストがあったり)そのタイミングでほぼ元の喉の状態に戻った私は、二度とあんな無理はしないと心に誓いながら慎重に授業をすすめている。
ここで今更ながら感じるのは、師であるソプラノ歌手「関定子」の奇跡。先生は2013年現在67歳。6月にオペラ「トゥーランドット」のタイトルロールを演じられる。説明不要!脅威のソプラノ!
先生から「歌うための技術を学ぶ」ことはいつも考えてきたつもりだったが、学ぶことはそれだけじゃなかったということを改めて気付かされた。
みなさん、体は有限です。いたわりながら、末永く使っていきましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿