大人の学び直しTV教養チャンネル すあし社長 のYouTubeチャンネル より
先日FMで(ブログでも)お笑い芸人「さらば青春の光」さんのYouTubeチャンネル「この本誰が書いとんねん」から2つの本をご紹介しました。このチャンネルは著者御本人を招いてその本についておしゃべりするという、とても楽しく紹介される本もかなりマニアックなものです。
今日ご紹介するチャンネルは同じ本の紹介でもかなり真面目な方向のものです。私の感覚では、義務教育の社会の時間に習った内容の、細かな部分というか、深い部分まで教えてくださって、それによって改めて「ああ、この出来事はこういうことだったんだ」と納得できるようなチャンネルです。
それでは早速書き起こしを始めます。
<そもそもアヘンとは?>
アヘンとはケシの実から取れる果汁を乾燥させたもの。その中にはモルヒネなどの成分が含まれていて、鎮痛や下痢止めといった作用があります。しかし、定められた量を超えて摂取すると心身ともに麻痺してきて、ふわふわとした状態になります。ひどい時には呼吸しにくくなったり、昏睡状態になったりする。大変危険な薬でもあります。中毒症状まで。
実際にアヘンは極めて古くから知られています。紀元前1500年頃のエジプトではアヘンが作られ、鎮痛剤などの薬剤として用いられていました。
<アヘン戦争>
そんなアヘンをイギリスは18世紀後半に植民地としたインドで大量に栽培し、その実からアヘンを大量に生産することで、世界各国に対して大規模な販売を始めます。特にイギリスがターゲットにしたのは、中国、当時は清の時代です。
もともと中国にはパイプでアヘン吸うという習慣がありました。とはいえ、それほど多くの人が薬物にはまっていたというわけでもありませんでした。そんな時にイギリスは中国ではアヘンを吸うという習慣が少なからずあるということに目をつけました。そこで、中国をターゲットにして、アヘンを大量に売りつけました。
清ではこのアヘンという強い麻薬にハマる人が次第に増えていきました。その結果清の生産力は大きく下がり、清王朝は日に日に衰退していきました。このような状況を問題視した清王朝は、アヘンを禁止する法律を定めました。怒ったイギリスが清に攻め込んだのがアヘン戦争です。アヘンで国力が弱り切っていた清は大敗。多額の賠償金と、香港をイギリスに譲ることなど、清にとって不利な条件ばかりの条約が結ばれることになりました。
<日本はなぜイギリスに狙われなかったの?>
根本的な理由は、江戸幕府や明治政府がアヘンの輸入を禁じ、アヘンを厳しく取り締まっていたからです。
<アヘンが広まらなかった3つの理由>
ではなぜ江戸幕府の頃から日本は一貫してアヘンを輸入しないという方針を取ったのでしょうか?
①1つ目の理由
そもそも日本では麻薬としてアヘンを使うということがあまり広まっていなかった
日本でもアヘンの存在自体は古くから知られていました。例えば、室町時代には南蛮との貿易によってケシの種がインドから津軽地方にもたらされたとされています。その後、江戸時代には実際に山梨県、和歌山県、大阪府付近などで栽培もされていました。しかし、作られたアヘンはいずれもごく少量であり、大変高価なものでもありました。用途としても。 麻酔などの医療用というのが主なもので、麻薬としてのアヘンはほとんど広まっていませんでした。
②2つ目の理由
日本が清のアヘン戦争の結果を知り、ヨーロッパ諸国やアヘン自体を大変恐れていた
江戸時代、日本は鎖国していましたが、オランダとは交流をしていました。当時、江戸幕府はオランダから世界情勢を記した書物をもらい、それによって世界の状況を逐一把握していたのです。日本にとって当時の中国は大変大きな力を持った大国であり、どこかの国に負けることなんて全く想像がつかないような強大な国でした。そんな大国がアヘン戦争によってイギリスにボロ負けしたのです。日本にとってこれは大変ショッキングな出来事でした。そのため、当時の日本ではアヘン戦争に関するより詳細な情報を記した資料を提出するようにオランダに求めました。
そして、当時の日本は中国の失敗から学び、いわば反面教師とすることでアヘンは危ないもので、日本に持ち込ませてはいけないと対策することができていたのです。
とはいえ、イギリスやアメリカが日本に軍艦でやってきて、アヘンを買いなさいと無理やり買わされる流れも当然ありえます。実際にイギリスは日本にもアヘンを買わせたいと考えて、1858年にジェームズブルースという外交官を日本に派遣しています。
③3つ目の理由
アメリカとの条約締結
1858年にイギリスからジェームズブルースがアヘンを売りつけるためにと日本に派遣されてきました。その2年ほど前の1856年、アメリカから日本の下田へやってきたアメリカの外交官がいました。彼の名はハリス。もう一人同じ時期に日本にやってきたアメリカ人にはペリーがいますね。彼は1853年に黒船に乗り、浦賀にやってきて日本に開国を迫ったわけです。
しかし、この条約の中には日本にとって良い条件のものがありました。それは
アヘンの輸入厳禁たり
このハリスの発言の中で一つ重要なことがあります。それはハリスがアヘンの危険性を強調していることです。ハリスは日本がヨーロッパ諸国に侵略されないためには、アヘンの売買を禁止する必要がある。だから、そのような内容の条約を設けてみてはどうかと提案していたのです。
日米修好通商条約は日本に不利な内容のものが多く含まれています。現在の感覚ではなんでそんな愚かな判断をしたのかと思います。しかし、それと同時にアヘンの脅威を防いだという観点から見れば、当時の江戸幕府の判断が理解できます。事前に世界情勢を仕入れ、アヘンの功罪を研究していたからこそ、長い目で見ての合理的な判断ができたというわけなんです。この判断があったからこそ、日本でアヘンが広まることはありませんでした。
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