なぜ日本ではアヘンが流行らなかったのか?(「大人の学び直しTV教養チャンネル」から) 2024年6月12日(水)

大人の学び直しTV教養チャンネル すあし社長 のYouTubeチャンネル より

先日FMで(ブログでも)お笑い芸人「さらば青春の光」さんのYouTubeチャンネル「この本誰が書いとんねん」から2つの本をご紹介しました。このチャンネルは著者御本人を招いてその本についておしゃべりするという、とても楽しく紹介される本もかなりマニアックなものです。

今日ご紹介するチャンネルは同じ本の紹介でもかなり真面目な方向のものです。私の感覚では、義務教育の社会の時間に習った内容の、細かな部分というか、深い部分まで教えてくださって、それによって改めて「ああ、この出来事はこういうことだったんだ」と納得できるようなチャンネルです。




















今日はその中から
「なぜ日本ではアヘンが流行らなかったのか」
をご紹介いたします。
清の時代、清ではイギリスから輸入されたアヘンが広まり、アヘン中毒になる人が急増し、国力は大きく落ち込みました。アヘンが要因となり、数十年のうちに清は滅びることになりました。つまり、アヘンは王朝を滅亡へ追い、やるほど重要なものだったと言えます。
そう言われてみると不思議です。当時の大国清はイギリスにやられたのに、どうして日本はそうならなかったのでしょう?

さてこのチャンネルを見るまでの西野真理の認識は、
「アヘン戦争?1840年、中国とイギリスがアヘンで揉めて、中国が負けた」
以上。お恥ずかしい。これ拝見して、「あ~そうだったんですね」と感じることが出来ました。

それでは早速書き起こしを始めます。

<そもそもアヘンとは?>

アヘンとはケシの実から取れる果汁を乾燥させたもの。その中にはモルヒネなどの成分が含まれていて、鎮痛や下痢止めといった作用があります。しかし、定められた量を超えて摂取すると心身ともに麻痺してきて、ふわふわとした状態になります。ひどい時には呼吸しにくくなったり、昏睡状態になったりする。大変危険な薬でもあります。中毒症状まで。

実際にアヘンは極めて古くから知られています。紀元前1500年頃のエジプトではアヘンが作られ、鎮痛剤などの薬剤として用いられていました。

<アヘン戦争>

そんなアヘンをイギリスは18世紀後半に植民地としたインドで大量に栽培し、その実からアヘンを大量に生産することで、世界各国に対して大規模な販売を始めます。特にイギリスがターゲットにしたのは、中国、当時は清の時代です。

もともと中国にはパイプでアヘン吸うという習慣がありました。とはいえ、それほど多くの人が薬物にはまっていたというわけでもありませんでした。そんな時にイギリスは中国ではアヘンを吸うという習慣が少なからずあるということに目をつけました。そこで、中国をターゲットにして、アヘンを大量に売りつけました。

清ではこのアヘンという強い麻薬にハマる人が次第に増えていきました。その結果清の生産力は大きく下がり、清王朝は日に日に衰退していきました。このような状況を問題視した清王朝は、アヘンを禁止する法律を定めました。怒ったイギリスが清に攻め込んだのがアヘン戦争です。アヘンで国力が弱り切っていた清は大敗。多額の賠償金と、香港をイギリスに譲ることなど、清にとって不利な条件ばかりの条約が結ばれることになりました。

<日本はなぜイギリスに狙われなかったの?>

根本的な理由は、江戸幕府や明治政府がアヘンの輸入を禁じ、アヘンを厳しく取り締まっていたからです。

<アヘンが広まらなかった3つの理由>

ではなぜ江戸幕府の頃から日本は一貫してアヘンを輸入しないという方針を取ったのでしょうか?

①1つ目の理由

そもそも日本では麻薬としてアヘンを使うということがあまり広まっていなかった

日本でもアヘンの存在自体は古くから知られていました。例えば、室町時代には南蛮との貿易によってケシの種がインドから津軽地方にもたらされたとされています。その後、江戸時代には実際に山梨県、和歌山県、大阪府付近などで栽培もされていました。しかし、作られたアヘンはいずれもごく少量であり、大変高価なものでもありました。用途としても。 麻酔などの医療用というのが主なもので、麻薬としてのアヘンはほとんど広まっていませんでした。

②2つ目の理由

日本が清のアヘン戦争の結果を知り、ヨーロッパ諸国やアヘン自体を大変恐れていた

江戸時代、日本は鎖国していましたが、オランダとは交流をしていました。当時、江戸幕府はオランダから世界情勢を記した書物をもらい、それによって世界の状況を逐一把握していたのです。日本にとって当時の中国は大変大きな力を持った大国であり、どこかの国に負けることなんて全く想像がつかないような強大な国でした。そんな大国がアヘン戦争によってイギリスにボロ負けしたのです。日本にとってこれは大変ショッキングな出来事でした。そのため、当時の日本ではアヘン戦争に関するより詳細な情報を記した資料を提出するようにオランダに求めました。

そして、当時の日本は中国の失敗から学び、いわば反面教師とすることでアヘンは危ないもので、日本に持ち込ませてはいけないと対策することができていたのです。

とはいえ、イギリスやアメリカが日本に軍艦でやってきて、アヘンを買いなさいと無理やり買わされる流れも当然ありえます。実際にイギリスは日本にもアヘンを買わせたいと考えて、1858年にジェームズブルースという外交官を日本に派遣しています。

③3つ目の理由

アメリカとの条約締結

1858年にイギリスからジェームズブルースがアヘンを売りつけるためにと日本に派遣されてきました。その2年ほど前の1856年、アメリカから日本の下田へやってきたアメリカの外交官がいました。彼の名はハリス。もう一人同じ時期に日本にやってきたアメリカ人にはペリーがいますね。彼は1853年に黒船に乗り、浦賀にやってきて日本に開国を迫ったわけです。

ハリスはペリーの数年後に日本にやってきて、日米修好通商条約という条約を結んだ人物です。
日米修好通商条約とはアメリカと日本が行う貿易に関するルールのことです。例えば。 横浜、長崎などのアメリカと貿易するための港を増やすこと、アメリカ人の居留地を設けることなど、貿易がしやすくなるための色々な決まりごとが含まれています。その中にはアメリカの商品に対して、日本は自由に税金をかけられないこと、治外法権と言ってアメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本では裁けないといった日本にとって不利になるような内容も多く含まれていました。

しかし、この条約の中には日本にとって良い条件のものがありました。それは

アヘンの輸入厳禁たり

という条項です。つまり、日本はこの条約によってアメリカがアヘンを日本に持ち込むということを禁止したのです。ここで意外なのが、実はこれが単に日本側から要請したからというだけではなく、アメリカのハリスからの勧めがあったということです。 ハリスは江戸幕府に向けてヨーロッパ諸国やアヘンの危険性を説き、
「アメリカはアヘンなんて持ち込まないから、一刻も早く大国アメリカと条約を結んでおくべきだ」
と主張したのです。
ハリスがこのような主張をした背景にはいくつかの理由が考えられます。
アメリカは日本そのものというよりもアジア諸国と広く貿易をしたがっていて、日本をあくまでもその中継地点として使おうとしていたことが挙げられます。とにかく早くに日本との貿易協定を結び、アジアの中継地として整備をしたかったのです。そして、そのためならアヘンの売買については日本側に有利な条件を結ぶという考え方をしていたのです。

当時、アメリカにはイギリスのようにアヘンを安く、大量に生産できるような環境がありませんでした。そのため、アメリカは日本にアヘンを売って儲けるということにはそもそもあまり関心がなかったということもあります。このようなアメリカ特有の事情もあったので、ハリスは日本に対して
「アヘンは持ち込まないようにするから、すぐに港を開いてくれ。後にイギリス、そしてフランスも日本に開国を迫る。早く港を開いた方が、日本にとってもメリットがあるはずだ」そんな主張をしたのです。
このように、ハリスはイギリスやフランスが日本に侵略してくる。そして、アヘンを売りつけてくる可能性があるということを指摘したのです。このハリスの主張を江戸幕府は信じるという決断をしました。この決断があったことで、幕府は日米修好通商条約を結ぶことを決め、アメリカとの貿易を開始したのです。

このハリスの発言の中で一つ重要なことがあります。それはハリスがアヘンの危険性を強調していることです。ハリスは日本がヨーロッパ諸国に侵略されないためには、アヘンの売買を禁止する必要がある。だから、そのような内容の条約を設けてみてはどうかと提案していたのです。

その後日本に当時大きな力を持っている国が連続してやってきました。オランダ、ロシア、フランス、そしてあのイギリス。日本はハリスの話を踏まえて指針を決定しました。それぞれの国と日米修好通商条約と同じような内容の条約を結んだのです。なぜならこの条約には「アヘンの輸入厳禁たり」という条項が含まれていたからです。そのため、日本はイギリスをはじめとする他の国とも、同じような内容の協定を結ぶことができました。要は
「あのアメリカともアヘン禁止の規定を結んでいるんだから、あなたの国だけ特別扱いしたらアメリカが怒るでしょう。それでも良いんですか?」
というようなやり方で交渉したわけです。

<おわりに>

日米修好通商条約は日本に不利な内容のものが多く含まれています。現在の感覚ではなんでそんな愚かな判断をしたのかと思います。しかし、それと同時にアヘンの脅威を防いだという観点から見れば、当時の江戸幕府の判断が理解できます。事前に世界情勢を仕入れ、アヘンの功罪を研究していたからこそ、長い目で見ての合理的な判断ができたというわけなんです。この判断があったからこそ、日本でアヘンが広まることはありませんでした。


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