2024年10月11日、日本被団協がノーベル平和賞受賞。おめでとうございます!
実は私、被団協の元委員長・坪井直さんに直接お会いしお話したことがあります。2015年、9年も前のことですが今もよく覚えています。
そのことを過去のエッセイに書いていますので、そのエッセイを貼り付けます。ちょっと長いですが、ぜひお読みくださいませ。
(このブログとは文体が違います)
史上最小の突撃ボランティア
<連合石川青年女性委員会・2015平和集会>
9月4日に行われた平和集会である。
一応私が主催者になっている。
戦後70年の記念の年、この集会の講師としてだれをお呼びするかという話を青年女性幹事会でしたとき、
「何年か前に広島から原爆被害者である語り部の方をお呼びしたが、その方がとてもよかった。今回もその方ではどうか」
との提案があったが、正直なところ私は気が進まなかった。体験者のお話だというだけで、その悲惨さが想像以上だと言うことが想像できるからだ。しかし私以外のメンバーの
「体験者ご自身からお話をお聞きできるのはもうそれほど機会はない」
との熱い意見で、その方をお呼びすることになった。
<坪井 直さん>
その方は、つぼい すなおさん。90歳。
20歳の時被爆され、現在広島原爆被害者団体協議会理事長・日本被爆者団体協議会代表。元中学校教諭で広島市立城南中学校長として退任。海外へ渡航されての平和の訴えも21回に及ぶ。
何しろ90歳である。お元気であったとしても、広島から来ていただけるかどうか、そもそもこんな遠くまで来ていただいていいものかどうかという意見もあったが、とりあえずお声かけしてみると、OK!
すごいおじいちゃんだ。
後でお聞きしたところによると、周りはみんな大反対。
しかし、坪井さんご自身が
「行って話をしたい!」
と強く希望してくださったこと、また、娘さん(長女と言っていらっしゃったが、どう見ても40歳以下。かなり遅くにお出来になった女のお子さんのようだ)がちょうどご都合がよく、石川県までご同行くださることが可能であったことから今回の講師を受けていただけることになったそうだ。
<坪井さんとの対面>
集会は石川県勤労者福祉文化会館2階。
主催者だし、早めに行って準備したり打ち合わせしたりと思っていたのだが、こんな日に限って担任している生徒の保護者が突然話をしたいと来校。会場に着いたのは集会15分前。
会場は準備万端。参加者はもちろん、坪井さんも講師席にスタンバイ完了。
何もごあいさつせず始めるのはあんまりだと思い、講師席に近づき言った。
「青年女性委員長の西野です。私、山口県出身なんです」
よく考えれば、広島県と山口県はそれなりに遠いし、私が山口県出身者だからといって、坪井さんのことを知っているわけでも、原爆に詳しいわけでもない。
しかし、誰も知らない場所にいらした坪井さんにとっても、話の糸口の欲しい私にとっても、このことはとても好都合な材料となり、急速に距離が縮まり、旧知の間柄のように開会前の5~6分を過ごした。
坪井さんはおじいちゃんだし、お顔を近くで拝見すると、一目で、原爆でかなりひどいやけどを全身に負われたであろうことが察せられるが、元気でユーモアのセンスにあふれ、とても若々しい。
実はもう一つ、私が坪井さんとおしゃべりし易かった理由がある。
それは、坪井さんの言葉のアクセントや方言が、山口県のそれととてもよく似ていて、100歳で亡くなった祖父としゃべっているような気持ちになったからである。
坪井さんが背広に原爆ドームのブローチを付けていらっしゃったので、そのことを聞いたら、一つくださったので、私も服に付けた。
↓このバッジ、今も大切に持っています
<西野委員長開会あいさつ>
開会あいさつをしようといろいろ考えてきたが、私が言おうとしたことは司会者の西出さんが全部言ってしまった。
仕方ないので、正直に言うことにした。
「私が言おうと準備してきたことは司会者が全部言ってしまいました。実は私は山口県出身で、そのことで先ほど坪井さんとすっかり盛り上がってしまいました。5分ほどですけど。今回坪井さんをお呼びしたのは、以前に坪井さんのお話を聞いたこの会の幹事から、ぜひ坪井さんをという推薦があったからですが、お歳のことも考えながらもお声かけしてみたところ、ぜひ行って話したいとのことで来ていただけることになりました。しかし、そのギャラですけど、何十万円もお支払いしているんではないのです。こんな額でよく来てくださいましたというような額なんです!坪井さんは先ほど『私もこの歳ですし、棺桶に入る前にできるだけお話しさせていただこうと思ってきました』とおっしゃっていましたが、棺桶に入るにはまだ10年はかかりそうです。それでは、貴重な体験談をお聞きいたしましょう」
<講演開始>
坪井さんのお話は、まずご自身の現在の体の状態からだったが、そのことに興が乗りすぎてしまって、正直一番お聞きしたい原爆投下後の話になかなか行きつかない。何しろご本人のご希望で、
「9時には寝たい」
ということで、講演は質疑を含めて1時間以内。レジメの内容を全部お話しいただくとしたら、このペースでは絶対時間が足りない。
ヤキモキしたが、90歳のおじいちゃんだし、まあいいかと思っていたら
ヤキモキしたのは私よりも娘さんのほうで、15分ほど経過した頃、我慢の限界を超えられたらしい娘さんが前へ出てこられ、坪井さんの耳元で
「原爆投下の日の話!」
すると
「ハハハ!(笑)私に文句を言えるのは娘だけですから」
<印象に残ったお話>
原爆に関することは、多くの資料や本に書かれてあり、それを見たり読んだりしていただければわかる。しかし、実体験者の話は重みが違うし、坪井さんからしか聞けない、坪井さんの思いがあふれた部分を3つ書いておきたい。
①原爆投下後、多くの医師がこんな発言をした
「原爆にあった人は2~3年でみんな死ぬ」
2~3年で死んでしまう人を雇う会社や結婚相手として選ぶ人はいない。
せっかく命を取り留めても、そのことで別の差別に苦しむことになった。
②原爆の写真を見たことがあるだろう
キノコ雲とか建物がぐちゃぐちゃになった写真ばかり。本当に見てほしいのは人間が大変な状態になっている写真だし、そういう写真はある。自分は実際に見ている。
しかし、国連の場でさえ
「残酷すぎる」
という理由で、公開することができない。
③あとでわかったこと
坪井さんは偶然
「この枠の中にいた人は全員亡くなっている」
というラインの少し外に逃げ、しかも、たまたまそこを通りかかった救護の軽トラに乗せてもらえたので助かった。
しかし、その時多くの助けて欲しい人がみんな乗せてもらえたわけではない。乗せてもらえたのは
「これからまだ戦える若い男」
だけ。原爆投下後、日本はまだ戦う気満々だったのである。
その時、なにもわからない5歳くらいの女の子が軽トラによじ登ろうとしたが引きずり下ろされた。その子は泣きながら、今思うと、全員亡くなっている枠の中の方へ駆けていった。坪井さんは
「火のない方へ逃げろ」
と叫ぶのが精一杯だった。
最後に坪井さんはこの話をこう締めくくられた。
「これが戦争なんです」
<講演後>
講演が終わったあと、本来なら「一緒にお夕飯でも」となるところだが、すぐにホテルでお休みになりたいということで、本当にこれでおしまい。お別れ前に坪井さんと娘さん、青年女性委員会のメンバーが集まり会場入り口付近で少しだけお話した。
お話を聞き終えて、私はもっと大きい会場にもっとたくさんの方をお呼びすれば良かったと思ったが、娘さんから
「こんなに多くの方に集まっていただけるとは思わなかった」
と言っていただいて、社交辞令かも知れないがとてもホッとさせられた。
1時間立ったままでお話下さった坪井さんだが、疲れた様子もお見せにならず、
「それではまた5年後に」
と、にこやかにタクシーでホテルへと向かわれた。
<ホテルへ>
お二人をお見送りしたあと、
「いくらご本人のご希望とはいえ、広島から来ていただいて、そのままお帰りいただくのはあんまりだ」
という思いが湧き出して止まらない。しかもこの日、私は名刺を忘れてしまい、自己紹介すらきちんとできていなかった。
「・・・ホテルへ行こう」
名刺代わりに、車のトランクに常に入れてあるエッセイを4冊ほどバッグに入れた。
<ANAホリデイ・イン金沢スカイホテル>
この名前、どうにかしてほしいと思っているのは私だけではないはずだ。
金沢駅前に以前「ホリデイ・イン金沢」があり、現在そこは「ホテル金沢」に変わっている。
また「全日空ホテル」が駅前にあったが、そこは「ANAクラウンプラザホテル金沢」に名称変更。
ANAホリデイ・イン金沢スカイホテルは、元「金沢スカイホテル」という名前で存在していたので、石川県に長くいる人には
「M’ZAのとこのホテル」
と説明する。これは、M’ZAというデパートの横にこのホテルがくっついているからだが、このデパートだって、元は「名鉄丸越」という名前。その「名鉄丸越」も、もっと以前は「丸越」だったらしい。
だいたい「M’ZA」を「エムザ」と読むのもどうかと思う。
この長いホテル名、いっそ「なかよしホテル」とかにしてくれないかな。
というわけでその「ANAホリデイ・イン金沢スカイホテル」へ向かった。
<ホテルのフロントで>
ANAホリデイ・イン金沢スカイホテルに着いた。
「連合石川の西野と申します。先ほどおじいさんと娘さんがお入りになったと思うのですが、坪井さんといいます。ちょっとお呼びいただけませんか?」
フロントの方に電話をかけていただいて、お部屋へ行かせていただけることになったが、ホテル的には宿泊者以外の入室は本当はだめなようだった。が、このホテルはよく連合で利用しているおかげで「連合」が威力を発揮してくれたらしい。
ありがとう連合。
<お部屋へ>
「一緒にお食事もできなくてすみません。私、実は歌手なんです」
この一言が、だいたい話の盛り上がりのきっかけになる。
「本も書いてるんです。名刺代わりにもらって下さい」
これでさらに盛り上がり
「実は中学校の音楽教師なんです」
坪井さんも元中学校の先生だから、一気にフレンドリーに。
しばらくお話しして最後に
「それでは1曲歌わせていただきます」
ホテルの部屋でいいのかな?と思わないではなかったが、広島県からのお客様、大目に見ていただこう。
「故郷」を歌い、盛大な拍手をいただいた。
こうして私の史上最小の突撃ボランティアは終了したが、分母が小さいことを考えると史上最大だったかも知れない。