現在2024年9月21日(土)朝7:21。小原さんはそろそろ新幹線乗車の時間。
私は着替えも終え金沢駅へお迎えに行く準備万端。でももう少し時間もあるので、なぜこんな幸運が訪れたのか、本番前に書いておきましょう。(結局ほとんど本番後に書きました)
<出会い>
初対面は2002年奏楽堂日本歌曲コンクールの本選に残った時。(記憶が曖昧な部分があるので、小さな記憶違いがあるかもしれません。ご了承ください)この時、塚田先生門下生がたくさん本選に残りました。そこで塚田先生が前日に新大久保のスタジオを借りてくださって本選出場者が集まりリハーサルを行いました。その時の伴奏者の一人が小原孝さんでした。(私は別の人)そしてリハーサル後みんなでファミレスで食事をしました。その時の楽しそうな写真は今も持っています。
私はその時が小原さんと初対面。でも気さくな小原さんと楽しくおしゃべりしたように思います。
次にお会いしたのは多分翌年2003年の、やはり奏楽堂日本歌曲コンクールの本選に残った時ではないかと思います。
それ以降は音楽の友ホールで開催される「日本歌曲シリーズコンサート」に出演オファーを頂いた時、そのピアニストとして参加される小原さんとその時にだけお会いする、というわずかな繋がりで現在まで。
<2024年元旦 能登半島地震>
能登半島地震については皆様ご存じのとおりです。
幸い我が家は被害をまぬがれましたが、報告される被害を聞くにつけ、なにかできないかと思いはするものの行動もできず、また、おそらく被災されたであろう知人に連絡を差し上げるのもなにか憚られるような複雑な思いでしばらく過ごしました。
そんな1月中旬、心配していた能登先端部に近い飯田在住、飯田小学校の校長である四十住さんのお母様だと思われる方が、たまたまテレビ取材に応じていらっしゃる姿を拝見。四十住さんご自身もご無事に違いないと、思い切って連絡してみました。
私が
「なにかお手伝いすることはありませんか?」
すると即座に
「歌いに来てください」
これにはびっくりしました。
でもさすが校長・四十住さん。私ごとき非力でやれ腰が痛い、肩が痛いと言っている人間が被災地で倒壊した家屋の木材を運んだりしたら、自分が怪我をして助けられる側になることは見え見えです。それならちゃんと得意分野でやってもらおう、というご判断です。
その後ボランティアセンターに連絡したり四十住さんとご連絡したりするうち、もう少しあとかな?と、ボランティアは保留状態となりました。
せめてもと飯田小学校の校歌をYouTubeにアップさせていただいたりして、時は過ぎていきました。
<小原さんからのメッセージ>
話は少し前後します。
震災後間もなくの1月7日、小原さんから
「心配しています。大丈夫ですか?落ち着いたら連絡ください。時期を見て是非一緒になにかやりたいです」
とメッセージをいただきました。
年に一度お会いするかどうか、しかもここ何年も音友シリーズからのオファーはいただいていませんでしたから、そもそもそんな私が石川県在住だと記憶して下さっていた事に驚きました。
そのメッセージをいただいたこともあり、飯田小学校でボランティアコンサートということになれば、なんとか小原さんとスケジュールを合わせられないかと考え続けました。
しかし、そうこうしている間に能登半島にはたくさんの有名人がボランティアにお入り下さって、私はとても気後れし始めました。また、少しずつ復興が進むと、それまでできなかった学校の行事も始まり、飯田小学校でもボランティアコンサートを日程に組み込むのは難しくなってこられたようでした。
<小原さんから2度目のメッセージ>
こちらは漸く桜が咲き始めました。東日本大震災から続けている活動の続きで能登半島地震心の復興支援「逢えてよかったね友だちプロジェクト」順調に支援が集まっています。全く急ぎませんが落ち着いたら状況をお知らせ頂けますか?念のため交通宿泊費など全部こちらで手配負担しますのでどうぞお気遣いなくお声がけください。色々継続して出来たらと考えています。ご無理ないところでご一緒させて頂ければ幸いです。
これをいただき、直ぐに四十住さんにご連絡したところ
「6月か7月では」
小原さんにもその旨お伝えしました。しかし、6、7月案もうまく日程調整ができないまま日々は過ぎていきました。
<小原さんから3度目のメッセージ>
そんなモタモタしている私にしびれを切らした小原さんから8月末、メッセージが送信されてきました。
その後、どんな状況でしょうか。9月21日~22日と仕事で石川県に行きます。(中略)今の所21日の夕方からが仕事なので、その前にもし都合がつくようでしたらお逢い出来たらと考えていますがご都合はいかがでしょう。ご無理の無いよう、もし可能でしたら宜しくお願い致します。
そしてさらに
特に被災地まで行かなくても良いかと思われます。
この「被災地に行かなくても」で、私の気持ちは一気に加速。小原さんの書かれた「被災地」は能登半島を指すものと理解しました。確かに能登半島の被害は甚大ですが、あまり報道されないかほく市・河北郡も液状化で大変な被害が出ています。そしてそこは私の居住地・私の勤務していた場所。こんなありがたいお話はありません。
<かほく市立宇ノ気中学校への電話>
まず私の住むかほく市の中学校に電話しました。かほく市でも大きな被害のあった地区があることと、教頭先生がかつての同僚だからです。
結論から言えば
「授業日ではないので難しい」
当然ですね。
ただ、私はかほく市民であるのに、なぜかかほく市の学校に配属されることは一度もありませんでした。しかし、先にかほく市にお声掛けしたということに、私は勝手に市民としての義理を果たした気持ちになりました。
<内灘町立内灘中学校への電話>
この学校は私がトータル18年勤務した思い出深い学校ですし、校長先生はかつての同僚。
話を聞いた小村校長は、
「授業日ではないけれど、どうしたらやれるか」
という方向で、はじめから話をどんどん引っ張ってくださいました。本当にありがたいことです。あまり日はありませんでしたが、実施に向けて突き進んだという感じです。
<幸運・音楽の友ホールのコンサート>
詳細はこのブログの「伊福部昭〜」シリーズをお読みいただくことで割愛いたします。幸運なことに、音楽の友ホールでのコンサートに出演させていただけることで、小原さんとボランティアコンサートの打ち合わせと合わせも出来ることになりました。
前日、音楽の友ホールでのコンサートの合わせのために塚田先生宅へ。小原さんも私以外の方との合わせで合流。
どちらも詳細は「伊福部昭〜」にありますが、元々なかった小原さんとの共演も突然決まったり、ボランティアの合わせをしたりと、本番前日とは思えないゴチャゴチャした、でもとても楽しい日になりました。
続く
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