ハイデガー「存在と時間」書き起こし その4「存在と時間」を超えて

 西野真理書き起こしシリーズ   100分で名著 

ハイデガー「存在と時間」 指南役 戸谷洋志

第4回「存在と時間」を超えて(4回シリーズ 最終回)

 

ナレーション

1933年、ナチス政権成立。ドイツはファシズムへの道を突き進みます。

その中に哲学者ハイデガーの姿もありました。

 

4回は弟子たちの言葉を手がかりにハイデガーの残した課題を乗り越え、未来へとつなぐ生き方を模索します。

 

今回は著者であるハイデガーの負の歴史に迫っていきます。ハイデガーがナチスに加担したという事実が残っているんですね。1933年ナチス政権が成立するとすぐに入党しているんですよね。

 

戸谷

ハイデガーはフライブルク大学の総長に就任して約10日後にナチス党の正式な党員になりました。ただ実際にはハイデガーとナチ党の関係はそれ以前からありまして、総長就任自体が相当に準備された計画だったと言われています。なぜハイデガーはナチスに加担してしまったのか、それは存在と時間で語られた哲学とどのように関係するのか、今回はこうしたことがどのような問いを投げかけているのかを紹介していきたいと思います。

 

司会者

まず「存在と時間」が刊行された当時のドイツの社会状況から見ていきます。

 

ナレーション

1次世界対戦で敗戦したドイツは巨額の賠償金を抱え政治的にも経済的にも混乱していました。1920年代半ば過ぎには改善の兆しが見えはじめ1926年国際連盟にも加入します。ところが世界恐慌が起こるとドイツ経済は再び破綻。そこに台頭してきたのがアドルフ・ヒトラー率いるナチ党です。

「存在と時間」は第1次世界大戦後の混乱とナチスによってドイツが暗黒の時代へと突入する間に世に送り出されたのです。

入党後ハイデガーは連日のように党の行事に参加。ヒトラーの演説後に壇上に立つこともあったそうです。

フライブルク大学の総長就任演説では学生に向けてこう語りました。

 

朗読

全ドイツ学生の決意性、ドイツの命運をその逼迫の極みにおいて、持ちこたえんとする決意性から、本学の本質に至る一つの意思があらわれるのだ。

この意志が全ドイツの学生をして、彼ら自身を新たな学生の権利を通じ彼らの本質の掟のもとによらしめ、それによって何よりこの本質を限定するならばこの意志は真の意志である。

 

戸谷

ハイデガーはここで全ドイツの学生がドイツという国の運命を引き受ける必要性を説いています。これは普通に考えればおかしな話で、大学で何を研究して何を学ぶのかは、国の意向からは自由であるべきだから。一般的にこれは「学問の自由」と呼ばれているものです。しかしハイデガーは学問の自由に目を奪われて、自国の命運をなおざりにする態度を強く批判しました。

 

司会者

ハイデガーはこう述べています。

第一の務めは、民族共同体への献身である。この民族共同体は民族のあらゆる階層や構成員の辛苦・努力・能力をともにささえ、ともに行う義務を課すものである。この務めは、今後、勤労奉仕によって確固としてドイツの学生の現存に根付くものになろう。

 

戸谷

ドイツの学生に求められているのは何よりもまず、ドイツという民族共同体への献身であって、それがどんなに苦しいものであったとしても学生たちに課せられた義務だとハイデガーは言っています。この第一の務めを彼は「勤労奉仕」と表現しておりまして、この本の続く文章では「国防奉仕」が第二の務めとして挙げられています。学生は持てる能力と自由のすべてを国家に捧げ戦う覚悟を持つべきだと彼は強く訴えました。

 

伊集院

ここまでくるとめちゃくちゃですよね。国粋主義。

 

戸谷

確かにそういう印象は受けますし、実際そういう内容のことをハイデガーは言っているわけですが、ただ彼の最終目的はナチスの勢力拡大にあったわけではない、というところに注意をしていきたい。

 

司会者

ではハイデガーの目的は何だったのでしょうか。

 

朗読

民族についての知、献身を用意すべき国家の定めについての知が、精神的負担の知と合一して、はじめて学問の根源的かつ充全な本質を創造するのであり、それを実現することは、われわれの精神的=歴史的現存のはじまりの、はるかな摂理におのれをゆだねる、その限りでわれわれに課せられているのだ。

 

ナレーション

ハイデガーにとって大切だったのは、ナチスそのものではなく、自らの哲学的思想の実現でした。ヒトラーに心酔していたわけではなく、自らの理想を叶えるためにその波に乗ろうとしたのです。

ところがハイデガーの訴える教育政策が大学で大きな支持を集めることはなく、むしろ徐々に反感を買うようになっていきました。

さらにナチスのイデオロギーに染まりきらないハイデガーは、ナチ党からも邪魔な存在として遠ざけられていきます。

結局わずか1年でフライブルク大学総長を辞任することになりました。

 

1945年、ドイツは無条件降伏。ナチスに加担したハイデガーは教職追放となります。その後処分は緩和されましたが大学のエリートコースからは外れてしまいました。そしてナチスに加担したことに対する謝罪の言葉はついにないまま、1976年他界したのです。

 

司会者

ハイデガーは1年で総長を辞任していますが、その後ナチ党との関係は切れたということですか?

 

戸谷

実は1935年に行われた講演でもナチスのイデオロギーを賛美していますし、その後も彼は党員であり続けていました。しかし終戦後、「自分は1934年の総長辞任意向一貫してナチスに抵抗した」と弁明することになってしまうんですね。

この代わり身の速さは見抜かれてしまって、教職から追放されてしまいます。ナチスに加担にしたことに対して、一切その生涯において弁明も謝罪もしませんでした。

 

伊集院

勉強してきた中に「世人に流されるのではなくて、これは自分の行った選択なんだ」ということはわかるべきだということは学んだので、そういう意識もあって、あんまり弁明もしなかったのかなという気も・・・

 

戸谷

ドイツをなんとかしたいという気持ちも一つはあったのではないかと思います。自分が所属している国のことを何も考えない人々があまりにも多すぎるがゆえに世の中が荒廃しているようにおそらく彼には見えただと思います。

本人が語らなかったこともあって、ハイデガーはしかたなくナチスを養護したんだと弁護したという見解もありはしたんですが、戦後ハイデガーとナチスの関わりを検証したり報告したりする本が続々と出版されて、本当にナチスの内に自らの哲学の理想を見ていた、少なくともナチスをちゃんと利用しようとしていたということは明らかになってしまうわけですね。そうなりますともはや彼を擁護することはできなくなってしまった。

ナチスへの加担が彼の哲学と固く結びついているのだとしたら、彼の哲学のどのような要素がそうした課題を含んでいたのか、それが戦後にこの本「存在と時間」を読み解く一つの論点になりました。

 

司会者

ハイデガー哲学とナチスへの加担の関係について取り組んだ哲学者の中にはハイデガーの弟子もいました。まずご紹介したいのがこの番組でも以前取り上げました、「全体主義の起源」の著者・ハンナ・アーレントです。

 

戸谷

「ハイデガーの子どもたち」と呼ばれる哲学者の一人で同時にナチスの犠牲となったユダヤ人の政治哲学者でもあります。戦後著書をドイツ語版で出版するときに「ほとんどすべてをあなたに負っています」と手紙を書くほどハイデガーから大きな影響を受けました。その一方で非常に鋭い批判も展開しています。

司会者

それではハイデガーの弟子、ハンナ・アーレントの言葉を読んでいきましょう。

 

ナレーション

ハンナ・アーレントはマールブルク大学でのハイデガーの教え子でした。

2次世界対戦が勃発するとユダヤ人として強制収容所に送られますが、混乱に乗じて脱走。アメリカへと亡命しました。以降全体主義の脅威へ注目し、

1951年には「全体主義の起源」を刊行。気鋭の政治思想家としての地位を確立しました。

 

ハンナ・アーレントは「存在と時間」における「他者との関係」に疑問を呈します。

 

彼女が問題視したのは、ハイデガーが「すべての他者を世人としてひとくくりにしたこと」でした。ハイデガーにとって世人とは現存在(人間)を支配し、非混乱的状況に陥れるもの。こうした図式に従うと仲間までもが私を堕落させる付き合うべきものではないことになってしまいます。その結果「存在と時間」で論じられる自己は孤立していることが特徴となります。孤独こそが人間らしい生き方とみなしているのです。

仲間から引き離され一人ぼっちになったとき、忍び寄るのは全体主義の脅威。アーレントはこう指摘します。

 

朗読

自らと同じ他者とともにこの地上に住まうことがもし人間の概念には含まれないとしたら、人間に残されるのはただただ、原子化された自己たちにそれらの本性には本質的に疎遠な共通の基盤を提供する機械的な和解だけである。

そのことから帰結しうるのはただ、決意によって受け入れた根本的な責めをなんとか行為へと移すために、もっぱら自ら自身に没入している自己たちを一つの超-自己へと組織化することでしかない。

 

戸谷

アーレントによると、ハイデガーは死への先駆という概念によって人間を孤独なものとして捉えたと解釈しました。そうした他者とのつながりから切り離された原子化された自己は、親しい仲間と意見を交わしたり連帯して活動したりすることができないと捉えられている。そうした人々は馴染みのないイデオロギーによって機械的に統治されてしまう。世人の支配をあれ程痛烈に論じたハイデガーは。実はむしろ全体主義の支配に対して極めて脆弱だったのではないか、というのがアーレントの考えです。

 

司会者

アーレントはどうしたら全体主義の脅威に抵抗できると考えていたんですか?

 

戸谷

アーレントが提示したのが、人間の複数性の重要性です。複数性とは一人としてこの世に同じ人間はいないということですね。それぞれが違った人間性であるからこそ、人間は互いに意見を交わすことができるのであって、そうした複数性が同じイデオロギーに染まる全体主義に抗う基礎になるんだ、と考えています。他者との関わりを世人からの支配、つまり非本来的なことと捉えて、むしろ孤独であることが自分らしい生き方、つまり本来的であると考えたハイデガーに対するアーレントなりの応答であるんです。

 

伊集院

空気を読む読まないの中で嫌の思いをしちゃうと、孤独がいいという結論は個々に出す。でも、そんなこと可能なのか?

 

戸谷

空気を読むことが本当に全部悪いことなのか。アーレントは「共通感覚=コモンセンス」という概念をとても重視するんです。相手に何かを伝えるためには自分の感覚だけではなくて、相手にどう伝わるのかをちゃんと想像できなくてはならない。またハイデガーは本当の自分、自分らしさというのは、孤独になって考えなければいけないんだという風に考えていたわけなんですが、アーレントはそうではなくて、むしろ他者と話していく中で初めて自分が何者なのかがわかる瞬間もあるんじゃないか、という風に言うわけですね。

 

共通感覚に基づいて他者とのつながりを営むことが、人間のリアリティを形d来るんだというふうにアーレントはいいます。そうだとするとSNSというのは人とのコミュニケーションはもたらすけどリアリティアはもたらさないような感じがしますね。本当に話し合っているのかな?

 

司会者

ハイデガーを批判した弟子がもう一人います。「責任という原理」の著者・ハンス・ヨナスです。

彼はどういう人物ですか?

 

戸谷

アーレントと同様にドイツ系のユダヤ人で、生命倫理や環境倫理と呼ばれる領域の代表的な論客として知られています。生命倫理というのは例えばクローン技術などの新しい医療技術に対して、どういう思慮とか批判があるべきなのかというのを論じる学問です。

アーレントは戦後すぐハイデガーと和解していたんですが、ヨナスのハイデガーに対する失望はとても深くて、ハイデガーとの関係は長く修復されませんでした。

ハイデガーのナチス加担についてヨナスが注目したのは前回ご紹介した「決意性」という概念です。

 

司会者

それではヨナスからの批判を読んでいきましょう。

 

朗読

ハイデガーは彼の欠dん哲学の絶対的な形式主義の中であまりにも本気すぎたことを、非難されるべきだったろう。そこでは決断することそれ自体が最高の徳になってしまったのである。

 

ナレーション

決意性とは現存在が自らの良心の呼び声に耳を傾けようとする意志です。それは「みんなもこうしている」という生き方をやめて、自分の人生を選び取ること。ハイデガーはそれこそが現存在が本来性を取り戻すことだと考えていました。

ところがヨナスはここに一つの疑問をいだきます。良心の呼び声は人間を世人の支配から開放はするが、何を決意すべきかは教えてくれない。それでは私が間違った選択をしても暴走しても良心は私を止めてくれないじゃないか。

ヨナスはここにハイデガーがナチスに加担したことへの一つの答えがあると考えました。

 

朗読

ハイデガーはヒトラーの内に、国家社会主義の内に、新しい国家始め、それどころか千年王国を始めようとする決起と意思の内に、歓迎されるべき何かを見たのだ。ハイデガーはその歓迎されるべき何かを長きにわたって彼自身の努力と同一視していた。とにかく決定すること、すなわち、総統と政党が決定すること を、ハイデガーは毅然とした決意性でそれ自体の原理と同一視したのである。

 

戸谷

ヨナスの批判は存在と時間の哲学に従ってしまうと、ヒトラーを支持してナチスに加担するという決断さえも人間の本来性として擁護されてしまうということをさしています。ハイデガーが決断する時、彼の良心は「それは流石にやめておいた方がいい」そうした語りかけをしてくることはありません。良心の呼び声はあくまでも沈黙の呼び声なんですね。だからこそハイデガーは決断力のあるリーダー像を演出したヒトラーやナチ党に飲み込まれてしまったんじゃないか、というのがヨナスの解釈です。

 

司会者

ヨナスの視点に立った場合は「存在と時間」の哲学はどのように補われるべきだと言っていますか?

 

戸谷

ハイデガーは「存在と時間」の中で、「自分の人生に責任を負うべきだ」と強調したんですが。ヨナスによれば「責任とはそもそも他者の生命を守ること、その傷つきやすさを気遣うことである」ということになります。彼がその責任概念をモデルとしたのは、子供・赤ん坊への責任です。

「泣き叫んでいる子供を目の前にしたときにその子供を気遣う責任を私たちは自然と負ってしまうんだ。もしも、本来性が重要なのだというのなら、私たちは自分の本来性だけではなくて、子どもたちの本来性にも責任を負うべきだ」

と。だからこそヨナスは、私達の未来への責任を強く主張した哲学を展開しました。

 

伊集院

でもハイデガーが流されない弟子を育てたことは間違いないよね。

 

戸谷

ハイデガーとその弟子たちの関係をみていると、教育とは何かということをなにか深く考えるんですよね。ハイデガーの弟子たち、特にヨナスは、ハイデガーのことを決して許していなくて、それくら燃え上がっているからこそ、彼自身も大哲学者に成長していくわけですよ。ある種弟子たちに憎まれながら弟子たちを奮い立たせるような力をハイデガーは持っていたんだなあと思いますね。

 

司会者

1回で先生が「存在と時間」の中にはハイデガーがナチスに加担したことを批判する内容が含まれているんだとおっしゃってましたが。どの部分だったんですか?

 

戸谷

みんなに同調することで、責任感のなくなった人間は自分自身も苦しめてしまう。「存在と時間」ではそうしたメカニズムが書かれています。この本は同時に自分の人生をみんなのせいにせず、自分自身に引き受けることが必要だとも説いています。これはまさに全体主義を批判する考え方そのものではないかと考えております。もし「存在と時間」でハイデガーがもっと考えるべきことがあったとしたら、それは本来性を取り戻した現存在がどのように他者と関わるべきか明らかにすることだったのではないかと思っております。これは21世紀を生きる私達にとっても決して他人事ではない課題なのかなあと思います。

 

読んでいく最中にいろんなことを考えさせてくれるというのがこの本のすごく面白いところかなあと思っています。畑仕事みたいに毎日続けて読んでいくと読破できるかなと思います。

 

 

 

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