アリストテレス「ニコマコス倫理学」書き起こし 第3回「『徳』と『悪徳』」(4回シリーズ)2022年6月11日

 

西野真理書き起こしシリーズ   100分で名著 

アリストテレス「ニコマコス倫理学」

指南役 山本芳久

3回「『徳』と『悪徳』」(4回シリーズ)

 

ナレーション

人々を幸福に導く「徳」について考えます。

 

司会者

今回のテーマは「徳と悪徳」です。「徳」はニコマコス倫理学の中で重要な概念でした。山本さん改めて「徳」とはどんなことですか?

 

山本

「徳」というのは人間が持っている可能性や能力を現実化し、充実したあり方ができるようになる。「勇気」という力、「節制」という力。幸福というのは遥か彼方にあるように見えていたかもしれませんが、そういう充実したあり方をすること自体の中にすでに幸福が実現し始めているんだ、という風にアリストテレスは考えています。

 

司会者

(アリストテレスの言葉)

諸々の<性格の徳>が我々に備わるのは、自然によってではなく、また自然に反してでもなくむしろそれらの「徳」を受け入れうる資格を我々が持っているからであって、習慣を通じて我々は完全なものになるのである。

 

山本

「自然によってではなく」というのは、「徳」は生まれつき持っているわけではないということですね。また「自然に反してでもなく」というのは人間の本姓に反しているわけでもない。そうではなくて、もともと持っている素質・資質、人間であれば誰でも持っている勇気や節制などを身につける可能性、それを11回の積み重ねを通じて現実化していく、その行為によって「徳」というものが身についてくるんだ、と。

 

万人が幸福になる可能性を備えて生まれてきている。

 

司会者

「節制」でいうと、節制の素質はみんな持っていて、習慣の積み重ねできちんと節制できるようになる、こういう感じですね。

 

ではどのように「徳」が身につくのか見ていきましょう。

 

朗読

様々な技術の場合と同様、我々はまずその行為を現実化することによって身につけるのである。(中略)

例えば、人は家を建てることによって建築家になり、竪琴を弾くことによって竪琴奏者になるのである。まさにこれと同様に、正しいことを行うことによって、我々は正しい人になり、節制あることを行うことによって、節制ある人になり、また勇気あることを行うことによって、勇気ある人になるのである。

 

ナレーション

アリストテレスはこんなふうに考えました。

例えば逆上がりができないAさんがいたとします。しれでも繰り返し練習しているとある瞬間うまくいく。友達にも褒められAさんは自信を得ます。Aさんは楽しくなり、逆上がりが上達していきます。

1回の成功体験は2回めの成功に繋がり、それと同じことが「徳」を身につけるときにも起こるのだとアリストテレスは言います。

 

朗読

人と人との交渉におけるいろいろな事柄を行うことによって、我々は正しい人間になったり不正になったりするからである。

また恐ろしい状況における諸々の事柄を行いながら、恐れることや自信を持つことを習慣づけられて、我々は勇敢な人間になったり、臆病になったりするからである。

 

伊集院

子供の時、電車の中でお年寄りに席を譲るのにものすごく勇気がいったんですよ。でもそのときに「ありがとう」と言われたときのその気持ちよさと次もやってみようという感じ。

山本

そうですね。まさにこの1回の成功体験が2回めの成功体験につながっている。アリストテレスは技術と同様に「徳」も身についたときには「素早く出来るようになる」「喜びを感じるようになる」ということがあるというように述べているんです。

 

伊集院

子供の頃道がわからなくて人に聞くの、勇気がいったじゃないですか。でも聞いたらすんなり目的地にたどり着けるようになると、次からは「聞けばいいんだ」というようにスピードがどんどん上がっていくじゃないですか。だからやっぱり実感するとスピードが早くなるというのはちょっとわかる気がします。

 

司会者

逆上がりの場合だと、先生が教えてくれるとできるようになると思うんですけど、「徳」の場合はそういうことってあるんですか?

 

山本

そうですね。アリストテレスは、「徳」はある人をモデルにして初めて身につくという風に考えています。

伊集院さん、多くの人が「徳」を身に着けるときに最初にモデルにするのはどういう人だと思いますか?

 

伊集院

大谷翔平が球場でゴミを拾っているところを絶賛していたらゴミを拾うようになるし、でも先生、それは普遍的にってことでしょう???誰でしょう。学校の先生ですか?

 

山本

「徳」についても「悪徳」についても、まずは親のあり方を見て自ずと身につけてしまうということがあるわけです。

 

司会者

もう一つ、「悪徳」についても言っていましたよね。恐れたり臆病になったりとかそういう「悪徳」も身についてしまうということですか?

 

山本

そうですね、戦場で1回、臆病になってしまって逃げると、その時逃げるだけではなくてまた次に似たような状況になると、逃げやすくなる何かができてくる。そしてどんどん臆病な人間になっていく。

 

司会者

(アリストテレスの言葉)

要するに一言で言えば、同じような活動の反復から、人の性格の状態が生まれるのである。(中略)

したがって、若い頃からただちにどのように習慣づけられるかは、些細な違いを生むのではなく、極めて大きな、いやむしろ、全面的な違いを生むと言ってよいであろう。

 

山本

非常にショッキングなことを言っていると思うんですね。我々が「徳」を身に着けようと思う、物心ついたときには、もうそれまでに躾とか環境とかで相当自分の性格、「徳」と「悪徳」の組み合わせみたいなものは決まってしまっているわけですね。我々はなにか中立なところから出発できない、なにか悪い方法が身についているならいるでそれを引き受けた上で少しでも良い選択をしていこう、という現実的な捉え方をアリストテレスはしていることを読み取れる箇所ではないかなと思います。

 

伊集院

ダイエットを例に取ると分かりやすい。そもそも僕は遺伝的に両親ともデカいから。自分はデカいわけです。小さいときから我慢が足りないわけですよ。じゃあしょうがないじゃん、じゃなくて、ここからより良くするにはできることはなんですかってやっていくと、もしかするとここからの習慣は加速度的に自分をダイエットに限って言うと良い体型にして行くかもしれない。

 

山本

アリストテレスは「悪徳」を変更することの困難さを語っている箇所もあるんですが、だからといって全く変更不可能なわけではなくて、少しでも良い、少しでも悪さの度合いの低い選択をしてみる。その事によって少しでも悪くない方向に進んでいく出発点が得られる。

 

司会者

次は節制について、自分の欲望をコントロールする力について見ていきましょう。

 

節制について4つのパターンに分けてみました。

①節制ある人   節制あるふるまいを選ぶ  葛藤がない

②抑制ある人   理性と欲望が葛藤しつつ、理性が打ち勝つ

③節制のない人  理性と欲望が葛藤しつつ、欲望が打ち勝つ

④放埒な人    欲望のままに振る舞う   葛藤がない

 

山本

節制ある人と抑制ある人は言葉を見るだけでは区別しにくいと思うんですんね。何が違うのかというと、抑制ある人というのは葛藤しつつ理性で欲望を抑える。それに対して節制ある人っていうのは葛藤がない。喜びを感じつつ程よい選択をする。

他方抑制ある人とない人とういのは、理性と欲望の葛藤があるという点では共通している。「わかちゃいるけどやめられない」それが抑制のない人。

最後の放埒な人というのは欲望のない振る舞い。そこで快楽を味わえることで満足している。

 

伊集院

ウオーキングの例でいうと、最初はわかってるけど今日は電車乗っちゃおうとかタクシー乗っちゃおうってなるんですけど、体のためだと思って一時的にですけど節制ある人のとこまで行くんですよ。歩くのが喜びになり景色が見えることが楽しくて体の調子も良くなってというところまで来るんですけど、また怠惰になっていくんです。なんかもとに戻りますよね。「徳」を身に着けたはずなんですけどもどってくるんですよ。

 

山本

そうですね。「徳」を身につけるには時間がかかるとアリストテレスは言っていて、その一つは今伊集院さんがおっしゃったことと関係があると思うんです。一旦いいところまで行くからこそ困難に直面してまた戻ってしまうんですね。なので「徳」を身につけるにはいくつかのステップを超える必要があるんです。

 

伊集院

「徳」揺り戻し、「徳」のリバウンド、そういうのが安定してだんだん本物の「徳」になっていくんでしょうね。

 

司会者

もう一つ「徳」について大事なことがあるので見ていきましょう。

 

朗読

過剰な運動も運動の不足も体の強さを損なうし、同様に食べ過ぎや飲み過ぎも、逆に飲食の不足も健康を損なうのであって、適度な量が健康を作り出し、増進し、保全するのである。

 

「徳」についても同じことが言えるとアリストテレスは言っています。

 

司会者

このようにまとめてみました。

 

超過  向こう見ず   浪費    放埒

中庸  勇気     気前の良さ  節制

不足  臆病      ケチ    無感覚

 

山本

超過でも不足でもない中庸を実現することによって「徳」が身につく。

「中庸」というのはしばしば「ほどほどに」とかいう風に捉えられるわけですが、必ずしもそういうわけではない、それだけでは不十分で、「ほどほどに」食べればいいだけではなくて、「食べるべきものを」「食べるべきときに」「食べるべき程度に」様々な条件を満たして真に「中庸」と言える、とアリストテレスは述べています。

 

司会者

結構難しくないですか?

 

山本

11回の行為で最善をすべて実現することはできないにしても、少しでも良いあり方、悪さの度合いの低いあり方を選び続けていく、その中でなにがほどほどなのかということが少しずつ分かり、かつそれを実現するための力量も少しずつ身についていく、やはり時間がかかるという風にアリストテレスは述べています。

哲学を学ぶというのは、特にこの倫理学のような実践が必要だと言っても、すぐに実践できなくても理論と知っていることが、実践の積み重ねの中で、思いがけないところで生きてくる、ということが様々な場面で起こりうるのではないかなと思います。

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