③弟子ハンナ・アーレントの反論から(ドイツ系ユダヤ人 政治思想家)
アーレントが問題視したのはハイデガーが「すべての他者を世人としてひとくくりにしたこと」。ハイデガーにとって世人とは現存在(人間)を支配し、非混乱的状況に陥れるもの。
こうした図式に従うと仲間までもが私を堕落させる付き合うべきものではないことになってしまう。その結果「存在と時間」で論じられる自己は孤立していることが特徴となる。孤独こそが人間らしい生き方とみなしている。
そして、仲間から引き離され一人ぼっちになったとき、忍び寄るのは全体主義の脅威。
④ハンス・ヨナスの反論から(ドイツ系ユダヤ人 倫理哲学者)
「存在と時間」の哲学に従ってしまうと、ヒトラーを支持してナチスに加担するという決断さえも人間の本来性として擁護されてしまう。
ハイデガーは「良心の呼び声に耳を傾けろ」と言ったが、良心の呼び声は「それは流石にやめておいた方がいい」みたいに、悪い時それを止めてくれたりしない。だからハイデガーは決断力のあるリーダー像を演出したヒトラーやナチ党に飲み込まれてしまったんじゃないか。
「責任とはそもそも他者の生命を守ること、その傷つきやすさを気遣うことである」とうこと、わかりやすく言えば子供・赤ん坊への責任。
「泣き叫んでいる子供を目の前にしたときにその子供を気遣う責任を私たちは自然と負ってしまう。もしも、本来性が重要なのだというのなら、私たちは自分の本来性だけではなくて、子どもたちの本来性にも責任を負うべきだ」
ヨナスは、私達の未来への責任を強く主張した哲学を展開した。
<その他>
1976年86歳で亡くなっているので、日本にももしかすると「ハイデガーを生で見た!」という方がいらっしゃるかも。
2 件のコメント:
4回シリーズでの「存在と時間」のまとめ、ご苦労様でした。
読みでがありました。彼のナチス時代の対応を考えても、今のこのプーチン戦争時代に再考してみる価値ありと思いました。タイムリーです。
彼にアーレントやヨナスのような弟子たちがあったのは、本当に救いです。反面教師としてのハイデガーということも感じます。
私自身の感想としては、もはや一人の(天才的?)哲学者が単独で思弁するという時代は古いと思います。やはり哲学は、ソクラテスやプラトンがやったように、「対話的」に開いていなければならない。それに「死」をことさら声高に新発見のように言う必要はなく、すでにソクラテスが「哲学は死の練習である」と、2500年前に言っていますね。仏陀ももちろん、これは自明です。
善男善女の「頽落」や「逃避」を言うばかりではなく、その複眼的・多面体的バランス感覚にも注目すべきですね。
怖いのはむしろ単眼的な独裁的な思考が、国家や民族というものと結びつく時です。そのことへの警告も、ハイデッガーの哲学は、反面教師的に与えてくれます。
あくまで私の感想ですが。
今時稀な哲学的探究に敬意を表しつつ。
sapporo1972様
ハイデガー書き起こしを全部お読みくださって大変嬉しく、またコメントにはハイデガー書き起こしをさらにまとめてわかりやすく書いていただきありがとうございます。
sapporo1972さんの詩(ブログ「詩と宇宙」)は哲学のようなというより倫理学的な優しさがあって、難しいなと思いながらもわかろうとせずに読ませていただいています。
ハイデガーにももっと人としての優しさがあれば、もっと真実に迫れたのではないかなあというのが、ここ最近の印象です。
わけも解らず書いているので、また、教えてください。
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