書き起こしシリーズ YouTube「ガクの本棚」より
西田幾多郎 「善の研究」 https://youtu.be/HrBSzhwjWu8
西田哲学に興味はあるものの、自分で「善の研究」を読破する能力のない私は、これまでにNHKの「100分で名著」を書き起こして一旦読んだ気になりました。(これはこのブログにアップしてあります)そしてそれをパーソナリティをしているFMかほくの放送で喋ろうと思いついて、すぐやめました。長いからです。
そこですぐに、ガクの本棚さんにメールを差し上げて、
①書き起こして、西野真理のブログに上げること
②それをFM放送で話すこと
について確認したところ快諾いただきましたので、早速書き起こしに入ることにしました。
<基本情報>
・日本最初の哲学書
・1911年に出版
・当時は日本の急速な近代化が進んでいて多くの問題を生み出していた。
・最も大きな問題は西洋化を押し付けられ急速な西洋化で「日本人である」
という確かなアイデンティティを感じられずにいた
・そんなときに日本思想を体系的に書き記し、人々に日本人としての誇りを
再確認させた書物が「善の研究」
・当時としては異例の100万分を超えるベストセラーになった
・いかに生きるべきかと悩む日本人の心を救い「西田哲学」と言われるよう
になった
<この動画の注意>
・できるだけ西田の言葉をわかりやすく噛み砕き、大事な要点だけに絞った
・内容から学べるのは「真に善なる人間とは」この一点
・人生のあらゆる試練に対し、なにか一つ乗り越えるヒントが欲しい人におすすめ
<西田幾多郎の生涯>
①馴染めない世間
1870年石川県かほく市(旧 宇ノ気町)に生まれた。西田は自身の素行が
悪かったせいで、成績は良いが落第生として学校生活を送る。
西田が最初に苦労したのは中学校生活。若き日の西田はどちらかというと
アグレッシブな性格で先生に反抗し、周囲とぶつかることも多かった。
そのせいで当時通っていた中学校を中退。
②肉親の死と哲学
そんな西田を哲学の道に走らせる事件が起こる。善き理解者であった姉が西田が17歳のときチフスで他界。
西田は生死に対する疑問を胸に東京帝国大学・選科性として哲学を専攻。選科性は本科生と全く待遇が違う学歴差別を受けるなど、多くの苦難を乗り越えやっとの思いで教師の職に就く。
その後結婚し子供を授かるが、西田33歳のとき二人の娘(5歳と生後1ヶ月)が死亡。
西田は言う。
「もし人生が死んだら終りというならこれほどつまらぬものはない。どんな人生であろうとも、そこには深い意味がなくてはならない」
西田にとってこの経験は乗り越えがたい試練であったと同時に
「私の人生は私だけのものではない」
という感覚を覚える大きなきっかけになった。
我が子の死は、西田がこの世界の深遠を覗き込む窓のような役割を担った。
③禅と西洋哲学・日本人の心の救済
西田にはもう一つライフワークがあった。それは座禅。禅寺で瞑想することが自己をみつめる大事な時間だった。「善の研究」ではこの「禅」も重要なキーワードとなる。
西田にとって「禅」とは精神統一という目的と、もう一つ。それは
「禅を通してわかったことがある。それは、自己の行き着く先は自他につながる」
「自己を深めた先に自他がある」
これは「善の研究」のゴールと言ってもいい言葉なので、少し頭の片隅においておいてほしい。
西田は当時の日本人を見つめながら、
「彼らには自己を深める指南書が必要である」
と感じていた。西田がそう感じたのは、当時の日本にはまだ東洋哲学がなく、西洋哲学に甘んじていたのが大きな原因。
この頃の西洋哲学は実在主義が主流だった。これは
「自分主体で人生を生きろ」
という考え方。この考え方はニーチェやサルトルが広めたものであり、当時の智の結晶ともいうべき素晴らしい哲学。
しかし、当時の日本人たちにはこれがあまりフィットしなかった。その理由は日本人の根底にある仏教的思想が関係する。これは
「私たちは大いなる何かに生かされている」
という感覚。
「私を中心に生きることはたしかに大事だが、本当にそれだけでいいのか」
と日本人はもやもやを抱えていた。
西田はこの違和感を感覚的に理解し、「善の研究」の序文にこう記した。
「個人あって経験なるにあらず。経験あって個人あるのである」
ここに言う経験とは他者であり自然でもある。つまり
「私のためにみんながいるんじゃない。みんなのために私がいる」
この言葉は、個を究めんとする智の結晶と西田の他を愛そうとする愛の思想とが混ざり合い、独自の西田哲学が開花した瞬間。
西田の哲学を一言で言えば
「知即愛の哲学」
西田は言う。
「元来、知と愛は1つである。人間は自己を深めると他者に開かれていく性質を持っている」
確かに自己を磨きよりよく生きようとするのは大事なことだ。しかしここが人生の極みではないと私は確信する。なぜなら、より良く生きようとする知は、即愛であり、より良く生きてほしい。他のために与えなくてはならないからだ。
④善の研究とその後
そして西田は41歳のときこれをまとめた「善の研究」を出版する。
最初は無名の学者であったためそこまで認知されなかった。しかし、当時有名だった劇作家であった倉田百三がこれを読み、自身の本の中で言った。
「私はなんとなく本書を手に取り、やがて活字の上に釘付けにされた。私の乾いた心に愛が染み入るのを感じ、涙が止まらなくなっていた」
こうして西田の名は瞬く間に全国に知れ渡った。
西田はその後43歳のときに京都帝国大学で教鞭をとる。
優秀な学者たちと研究を重ね、多くの論文を残した。
西田はその後も妻の死、息子の死を経験する。しかし、悲しみに打ちひしがれるのではなく、悲しみを知と愛に変え、前進する生涯を送り1945年75歳で亡くなった。
<「善の研究」の要点>
①善の意味
私たちは「善」と聞くと「善と悪」のような相対的なイメージを持つが、そうではない。
ここでいう「善」とは、あなたそのものを意味する。
「私」という字には「仏」という字が隠れている。曹洞宗の開祖・道元は言う。「仏法は万人に豊かに備わる」と。
西田は「善」の章でこれを明確に言った。
「道徳のことは自己の外にあるものを求めるのではなく、ただ自己にあるものを見出すのである」
ここではまず、私達の心の中に「善」という種があると理解しておく。
②知識があなたを盲目にする
しかし、私達人間は安全な存在ではない。頭でわかっていてもそううまくは行かないよね、というときがある。例えば「あの人は悪い人だ」と決めつけてしまう心は誰にだってある。西田はこの問題そのものの原因と、どうすればいいかの解決策を私達に呈示します。西田は、生まれながら善であった私達が相手を嫌ったり騙したりする原因について、こう答える。
「それは知のフィルターのせいである。私たちは様々なフィルターを通して世界を見ている。これを自覚しなさい」
ここでいう「知のフィルター」とは私達の「言語・価値観・思想」などを意味する。
一番わかり易いのは言語。
例えば青色を想像したとしても、人によってその青は少しずつ違う。言葉には限界がある。
このように西田は
「ときに知識があなたを盲目にすることを自覚しなければならない」
という。
特に強調したいのは「言語・思想・価値観」は目に見えない、霊的な何かを感じる弊害にもなっている。例えば
「これは有名人が使っているから」
とか
「値段が高いから」
とか
「みんなが評価しているから」
のような曖昧な基準で価値を判断しようとするとき、または、
「論理的におかしい、理屈としておかしい」
と感じてしまうことも。
私たちは知にばかり囚われ、自分の目と物事の間に「経験則・好き嫌い・他人の意見」を交え、純粋に物事を見ることができていない。
しかしこれらをなくすのは無理なこと。だから日常生活の中で
「自分はよけいなフィルターを通して物事を見ているかもしれない」
と自覚するだけで良い。
③知と愛のバランス
西田はこの解決法として、「愛を深めること」を説く。
「知を深める」はわかるが、「愛を深める」と言うのは誤解を生みそう。ここで言う愛は、他者との関係性を深めることではない。自己を深めた先にある他者愛のこと。
自分から伸びるアンテナの向きとして考えると、知を深めるとは自分のアンテナを外に広げることと同じ。私たちは外にある情報を知ることで自分の頭を良くしようとする。
対して「愛を深める」とは、自分のアンテナを内に広げること。私たちは自分の内にある善を知ることで、自分の心を磨くことができる。だから西田にとって本当の善、つまり本当の自分とは「知と愛のバランスを持った自分」を意味する。西田は愛を深める行為として「禅」を上げている。
西田は言う。
「自己の精神世界を広げ、自他へと開かれたとき、この真理を理解した」
西田は「哲学則人生」を掲げる人だった。学者のための学問ではダメ。民衆が実践でき、即生活に生きる哲学こそ大事だといった。まさに西田の哲学は人生に生きる哲学。
西田は晩年、自分の哲学に向かう態度をこう表現した。
「哲学の動機は驚きではなく、深い人生の悲哀でなくてはならない」
西田は誰もが経験する悲しみを原点とした。
「悲しみを乗り越えるために哲学を探究せよ」
これが西田の哲学に対する姿勢だった。そして結果的に、自分の運命に苦しめられた西田は、誰よりも自愛に満ちた哲学を展開した。
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