西野真理書き起こしシリーズ 100分で名著
ハイデガー「存在と時間」 指南役 戸谷洋志
第2回「不安」からの逃避(4回シリーズ)
「世人」はすべてのことに於いて軽々と責任を引き受けるが、それはどの「ひと」も責任を取る必要のある「ひと」ではないからである。
ナレーション
人間に無責任な生き方をもたらす世人(せじん)という概念。それは私達にかりそめの安らぎを与える代わりに、自分で考える力を閉じさせます。
戸谷
世人に同調してさえいれば安心できるから。
ナレーション
第2回は「世人」という概念と不安の正体を考察し私達が無責任となるメカニズムを探ります。
司会者
人間は日常の中でどんなふうに存在しているとハイデガーは言っているんですか?
戸谷
現存在(人間)は日常において自分を自分ではないものとして理解して生きていると考えています。前回登場したハイデガーの用語でいうと「非本来性」の中で生きているということになります。
自分ではないものによって自分を理解するということは、誰かからまたはどこかから借りてきた言葉で自分を否定していることを意味しています。こうした自分ではないものを私達にもたらすものをハイデガーは「世人」という言葉呼んでいます。
世人は「ひと」とふりがなが振られていますが、音読でのわかりやすさを考えて、「せじん」と呼びます。(ドイツ語=das Man)
司会者
今の私達にもっとわかりやすい言葉でいうとどうなりますか?
戸谷
「世間」であるとか「その場の空気」に近いと思います。
ハイデガーはこの世人という概念から私達が陥っている無責任な状態や同調圧力の問題を分析していくんですね。このあたりの議論というのは現代人の私達にとっても少し耳の痛いものになるかもしれません。
朗読
日常的な現存在であるのは誰なのかという問いには、それは世人であると答えられる。この世人とは誰でもないひとであり、この誰でもないひとに、すべての現存在は、「互いに重なり合うように存在」しながら、自らを常にすでに引き渡してしまっているのである。
ナレーション
ハイデガーと2つの言葉。世人。何となくみんなもこうしている、こうした方がいいという規範をもたらす空気のようなもの、それが世人です。
日常において現存在=人間は世人に従って生きています。言い換えればどんなときでも人間は空気を読み、みんなが正しいと思うことに照らし合わせて自分を理解しているのです。自らを世人に引き渡してしまった現存在は自然に世人が考えるように考え行動します。その影響は日常の隅々にまで及びます。
例えば読書や絵画鑑賞を楽しんでいるときすら、私たちは空気を読んでいるのです。
朗読
私たちは人「ひと」が楽しむように楽しみ、興じる。私達が文学や芸術作品を読み、鑑賞し、批判するのは、「ひと」が鑑賞し、批評するようにである。
私達が「群衆」から身を引くのも、「ひと」が身を引くようにである。私達が「憤慨する」のも、「ひと」が憤慨するようにである。
この世人とは特定のひとではなく、総計ではないとしてもすべてのひとであり、これが日常性の存在様式を定めているのである。
司会者
私達の感動や行動は主体性がないと言っているのですか?
戸谷
例えば美術展に行って絵がかかっていて、絵だけ見ているとすごくヘンテコだなあと思うんだけど、その横に解説が書いてあって、例えばピカソのこういうことを表現したとかを読むと、「あ、すごい絵なんだ」というように見方がころっと変わってしまったり。これをハイデガー風に言えば作品そのものを見ているのではなくてみんなが作品をどう評価しているのかを気にしているに過ぎない。
ハイデガーはすべての人間が世人に支配されているんだと考えていました。ですので意思の弱い人が特別非存在的になっているとかそうした事を考えていたわけではないんです。世人という概念は特定の誰と呼ぶことのできないとらえどころのない雲のような不気味な存在としてこの本の中では描かれています。
司会者
私は空気読んでなくて自分の意思でそうしましたという人もいますよね。
戸谷
大変皮肉な話なんですが、自分だけは空気を読まないで自由に生きてるんだと思っている人の方が実はすごく深く世人に飲み込まれているんだとハイデガーは考えるんですね。
型破りっていう言葉はとても面白くて、型破りな事ができるっていうのは型が何であるかわかってないとできないんだと思うんです。ですから型破りな人も実は常識的な人だっていうことになる。
司会者
そしてハイデガーはこの世人の生き方をこう言っています。
「頽落(たいらく)ドイツ語=Verfallen」
世間の尺度に従った・世人に飲み込まれた生き方
どういう意味ですか?
戸谷
別の言葉でいうと「退廃」しているに近い言葉だと思います。
私たちは日常生活において穴に落ちるように世人の中に飲み込まれていってそこから抜け出すことができないのだとハイデガーは考えています。
頽落した人間の特徴をハイデガーは3つ挙げています。
①「世間話」②「好奇心」③「曖昧さ」
①「世間話」みんなが理解できること、内容が薄くて表面的なことしか話されなくて次々と関心が移り変わってしまう。②の好奇心ともつながってくる。
②「好奇心」
世間に迎合してコロコロと自分が関心があることも変わってしまう。そういう落ち着きの無さを好奇心と言う言葉で表現しています。
③「曖昧さ」どういう意見なのかわからないことが語られてしまう。
これらのものをいけないというのではなくて、そういうものだと言っている。
人間というものは日常において常に非本質的にしか生きることができないんだ。そういう現状を分析しているのがこの概念であるということですね。
世人としての生き方が悪い方に作用していくと自分の頭で考えて判断する機会が失われてしまいます。ここから立ち現れてくる深刻な問題が
「責任の不在」
という問題ですね。責任の不在が暴力と結びつく典型的な例が「いじめ」ではないかと考えています。いじめに加担する人の多くはただその場の空気を読んで何となく一緒になっていじめてしまっているケースが多いのではないでしょうか。みんなと一緒になって誰かをいじめている時に現存在は
「みんなそうしてるんだから、そうしないといけないんだ」
と
「責任は自分をそうさせた世人にある」
というロジックが働いてきて、結果的には自分を正当化させることができてしまう。
こうやって人間は無責任な状態に陥ってしまうんだとハイデガーは考えていきます。
「いじめられている子にいじめられる理由がある」
ということも
「みんながそう思っているから成り立つ」
とハイデガーは言うと思います。
じゃあなんでいじめられる子にはいじめられるに足る理由があると自分は思ったのか、心の底から説明できる人がどれだけいるのか。
朗読
世人はどこにでもいる。しかも現存在が決断を迫られるときには、世人は常に姿を消してしまっている。だが世人はあらゆる決定と決断をすでに与えてしまっているので、それぞれの現存在はもはや責任というものを取ることができなくなっている。
「ひと」はいつも世人を引き合いに出そうとするが、世人はそれを平然と受け入れることができる。
世人はすべてのことについて軽々と責任をひきうけるが、それはどの「ひと」も、責任を取る必要のある「ひと」ではないからである。
ナレーション
私達が漠然と人間と呼ぶ「世人」。みんなに合わせている現存在は「みんなもこうしている」という規範に従っているため、自分で責任を引き受けることを免除されています。
しかし、私の代わりに責任を引き受けているはずの「みんな」とは一体誰でしょうか。結局のところそれは誰でもない誰かなのです。みんなに責任があるから誰も責任を引き受けようとしない。それは誰にも責任がないということと同じです。誰もが透明人間のようになって、引き受けるべき責任からするりと逃れているのです。
こうした無責任さの究極の例が第2字世界大戦中にナチスドイツにおいてユダヤ人迫害に加担した、アドルフ・アイヒマンの弁明です。
ナチス親衛隊の中佐だったアイヒマンはユダヤ人を強制収容所に輸送する部門で実務を取り仕切っていました。
戦後アルゼンチンに逃げ延びますが、イスラエルの諜報機関によって拘束、強制連行されエルサレムの法廷で裁判にかけられます。この裁判で彼は自身の無罪を主張。
「ドイツの支配者達によって命じられたユダヤ人の絶滅につきましては遺憾に思い非難いたしますが、私自身は防ぎようがなかったのです」
ユダヤ人大量虐殺の責任は、その実行に加担した自分ではなく命令したナチスという組織にあると強弁しました。
世人に支配された人間が陥る最も極端な姿、それがアイヒマンの無責任なのです。
戸谷
アイヒマンを批判するなら自分もこうした無責任さで誰かを傷つけているかもしれないということを深く内省する必要があると思います。例えばインターネット上で特定の個人が誹謗中傷を浴びているという行為にも、「みんなが叩いているから自分も便乗しただけなんだ」というような無責任さがひそんでいるように思います。実際にSNS上で誹謗中傷によって自分の命を断ってしまった人もいるわけですね。自分の行動によって生じる他者への責任を考えているのか、いない人がほとんどではないかと思います。
しかも近年のSNSは非常に匿名性が高く、拡散機能が充実しているので、そうした暴力への加担をより容易なものにしてしまっているようにも思えます。少し強い言い方をすると我々もアイヒマンと同じ轍を踏む存在かもしれないということを深く自覚すべきではないかと思います。
司会者
なぜ私たちはみんなの意見に合わせる世人になってしまうのですか?
戸谷
ハイデガーの答えは極めてシンプルです。
「世人に同調してさえいれば安心できるから」
というものです。
朗読
世人は充実した真正の「人生」を育み、送っていると思い込んでいるために、現存在のうちにある安らぎをもたらす。そのことで全ては「順調に進んでいる」のであり、この安らぎのうちですべての「可能性の」門戸が開かれていると、現存在に思わせるのである。
現存在が世人のうちに、配慮的に気遣った「世界」のもとに没頭していることによって、現存在は「本来的な自己であり得ること」として自分自身から、いわば逃走していることが明らかになる。
戸谷
「世人に同調することの安らぎは本当の安らぎなのか」
これは残念ながら真の安らぎではないということになると思います。
もちろん一時、みんなに同調していれば安心感を得られるんですが、ただその安心感を得るために一層みんなと同じように生きようとして努力が必要になるからです。
いじめが支配している教室の中というのは、実際はみんなが誰をいじめようとしているのか敏感に察知しなければならなくて、すごく消耗するという状態にみんなが置かれているのかなあと思います。
司会者
不安についてはハイデガーはどう言っているんですか?
戸谷
ハイデガーは恐怖と比較して説明しています。恐怖には明確な対象があり、それに対して働きかけをすることができるわけです。ところがハイデガーによると、不安にはそうした明確な対象がないんだ、という風に言うんです。そうだとするとそれに対して働きかけることもできず不安を完全に払拭することができないと彼は考えています。
世人の中で完全に同調していてもそれが不安を打ち消すことにはならない。順調に全てが進んでいてもそれでも私達を苛んでくるのが不安なんだとハイデガーは考えています。
ハイデガーが「安らぎ」の対義語として捉えているのは不安ではなくて「世人の中に飲み込まれていくこと」なんです。ですので不安の中に踏みとどまることができるのであればそれを安らぎとみなすこともできるかもしれない。
朗読
不安が「そのために」不安を感じているものは、現存在の特定の存在様式でも可能性でもない。「不安をもたらす」脅かすものは、それ自体が未規定なものであり、だからあれこれの事実的で具体的な存在可能の内に脅かしつつ侵入してくることはできない。不安が「そのために」不安を感じているものは、世界内存在そのものである。
戸谷
「自分が世界内存在であるということ、つまり自分がこの世に生きているということ自体が不安の源泉。だからそういう不安から目をそらすために人間は自分自身の生き方を考えるのをやめて世人に身を委ねて不安を忘れようとするんだ」
と彼は言っています。
例えばこんな学生のことを想像してみてください。
学校へ行くのがとてもつらくて学校へ行いけなくなっている。学生は本来学校へ行くべきだという世間の常識を自分に課すことで自分を苦しめていることに彼は気づくわけです。でもじゃあ常識を捨ててしまったらこの学生は救われるかと言ったらそうではないわけです。自分自身の行き方を自分で考えなければならなくなってしまう。そうすると、何も確かなものがない苦しみに苛まれるくらいなら確かなものにしがみついてその結果苦しい方がマシだと思うようになっていく。だから自分から逃げて世人になってしまう。
ハイデガーは「人間はどんなときでも世人に飲み込まれている」というんですが、この状態を乗り越えることができる瞬間もあるというんですね。どうすれば現存在が本来性を取り戻して生きて行くことができるのか、それは次の第3回でお話ししたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿