西野真理書き起こしシリーズ 100分で名著
ハイデガー「存在と時間」 指南役 戸谷洋志
第1回「存在とはなにか」(4回シリーズ)
「存在と時間」が刊行されたのは1927年ドイツではヒトラー率いるナチスが台頭した時代です。ハイデガーが生きた100年前に現代を重ね「存在と時間」を今読む意義に迫ります。
戸谷
キーワードはズバリ、責任です。
私がこの問題に関心をもつようになったきっかけは、2011年の3・11のときでした。当時SNS上で放射性廃棄物の影響を恐れる人々と楽観視する人々が攻撃的に罵倒し合うような光景を目の当たりにしまして、大変疑問に思ったんですね。その背景には「みんな」がしているから自分もやっていいというある種の無責任さがあったんではないかなあと思います。
こうした問題を考えていくときに「存在と時間」は大きな手がかりになると思っておりまして、私達の日常に結びつけて考えていきたいと思っています。
司会者
この本は「反面教師」として読む一面もあるんですよね。
戸谷
はい。というのも「存在と時間」の著者ハイデガーはまさに人々を無責任な暴力へと先導していったナチスに加担してしまった哲学者でもあるからです。
司会者
1927年「存在と時間」の刊行で一躍時代の寵児となったハイデガーなんですけれども、1933年にナチスに入党するんですね。
戸谷
人間のあるべき姿を追求していたはずのハイデガーがなんでナチスに加担してしまったのか。これは当時の哲学界に大きな衝撃を与えることになってしまいました。ただ「存在と時間」をよく読んでみると、こうしたハイデガーの行動を批判するような内容が書かれているんです。今回は両義的な視点で迫っていきたいと考えています。
ナレーション
ハイデガーは1889年ドイツ南部の静かな田舎町メスキルヒで生まれました。
二十歳の時(1909年)に故郷を離れ名門フライブルグ大学に入学。当初の専攻はキリスト教神学でしたが、フッサールの著作から哲学にのめり込み哲学部に編入します。卒業後は郵便局で仕事をする傍ら固定給の支払われない講師として大学で教えていました。
不安定な講師職を脱したのはマールブルク大学に移った34歳の時(1923年)。しかしここでのポジションも員外教授という教授会のメンバーとみなされない不遇なものでした。昇進を阻んでいたのはおよそ10年間著作がないということでした。「とにかく1冊書かなければ」焦りをいだきつつ37歳の時体育館で書き上げたのが「存在と時間」です。
当時は上下で2巻となる著作の予定でしたがとりあえず前半を単行本として出版します。発表直後から高い評価を得たハイデガーがはマールブルク大学正教授の地位を獲得。さらに翌1928年、母校フライブルク大学哲学部教授に就任します。
戸谷
時間がなかったハイデガーは書けたところから印刷に回して印刷が進んでいる間に続きを書くというような非常にタイトなスケジュールで「存在と時間」を書いていきました。
こうした無理がたたったためか上巻が出版された後、下巻を書き進めることができなくなってしまいました。それでも当時の哲学界に与えた影響は非常に大きなものでした。
ハイデガーがそれ以前の西洋哲学を根本から批判してそれをひっくり返すような問題提起をしたからなんですね。
「実は私たちは存在というものをよくわかっていないんじゃないか。それなのに哲学の中でこの問題は解決されたものであるかのように語られている」という問題提起をしたんですね。
伊集院
なぜ哲学の中で「存在」が問題になるんですか?
戸谷
「存在というのは哲学だけではなくてあらゆる学問の基礎なんだ」という風に彼は考えていたですね。
例えば数学という学問は数という概念を最も基礎的な概念としているかもしれないし、物理学という学問は物体や物だと思うんですね。じゃあ数とか物体というものがそもそもなにかというと「存在」のあり方の一つ。じゃあ「存在」がわかっていなかったらそれを前提にしている数とか物体の概念もよくわからないということになる。したがってあらゆる学問の基礎を考える上でもっとも重要な問題なんだと彼は考えたんです。
司会者
では、存在という概念とはなにかということについて考えていきたいと思います。
ハイデガーによりますと私たちは、存在という概念を今この瞬間にものが目の前にあることだと理解していると言うんです。ハイデガーはここに疑問をもったわけです。
戸谷
この考え方では説明することができないような存在のあり方もあると彼は考えたんです。例えば人間。人間は誰しも過去の経験や思い出を持っていますし未来への展望を持って生きていると思います。人間はただ単にこの瞬間に生きているんじゃなくて現在意外の時間とも繋がりを持って存在しているんです。
「今この瞬間に物がある」
という理解では人間の存在を正しく捉えることができないとハイデガーは考えたんです。
縄文時代の土器がここにあるとして、この土器は現在にあるわけですよ。でも私たちはこの土器から縄文時代の存在を確かめる事ができるわけです。じゃあ縄文時代ってそもそもどうやって存在するのか。これは先程のような目の前に物があるということでは説明のできないあり方。
朗読:冒頭の言葉
私達は現在「存在している」(ザイエント)と言うことで、そもそも何を言おうとしているかという問いに何らかの答えを持っているだろうか。いかなる答えも持っていない。だからこそ存在の意味への問いを新たに設定する必要がある。
朗読者
「存在の意味への問いを新たに設定する必要がある」
なぜでしょうか?
それは存在しているという言葉が一体何を指しているのかがそもそもわからなくなっているからだとハイデガーは言います。
例えば今みなさんがご覧になっているテレビ。これは存在でしょうか?ハイデガーによると
「それは存在しているも物であって存在そのものではない」
と。
こんがらがってきましたね。
ナレーション
例えば「テレビがある」という文章においてテレビはあくまで存在しているものであって存在そのものではないとハイデガーは言います。存在という概念として考えられるべきなのは、存在しているものではなく
「がある」
の方なのです。
ところがこれまでの哲学は存在の意味を解き明かすためにテレビに当たるものにばかり考えをめぐらしていたとハイデガーは指摘しました。
「〇〇がある」
という言葉のうち、
〇〇に当てはまるののが存在しているもの=存在者(ザイエント)
がある=存在(ザイン)
と呼んでハイデガーは両者を区別しました。そして
「存在者よりも存在について考えるべきだ」
と主張したのです。
哲学史においてハイデガーが成し遂げたことは「存在とはなにか」という言葉を洗練させ刷新することでした。
つまり問いに対する答えを出したのではなく、より望ましい答え方に迫るための問い方を提示したのです。
朗読
存在の問いを問うということが、ある存在者の存在様態であることを考えるならば、この問いはこの問いにおいて問われているものによって、すなわちその存在によって、本質的に規定されていることになる。
この存在者は、そのつど私達自身なのであり何よりも問うということを自らの可能性の一つとして備えている存在者なのである。
ここでこの存在者を呼ぶために現存在(ダーザイン)という術語を定めたい。
戸谷
存在しているものをハイデガーはまず「存在者(ザイエント)」と呼んでいます。そうした存在者の中で存在の意味を問うことのできる存在者にハイデガーは「現存在(ダーザイン)」という特別な名前を与えています。まずこの問題について考える人間の存在について考えていこうということなんですね。
「人間」という言葉を使ってしまうと偏見や先入観が入ってしまうから。
当たり前を洗い落としより純度の高い思考をすすめていこうというのが、ハイデガーの意図だと思います。
「現存在」というのは自分自身の存在を理解しているということです。
ここから
「それじゃあ人間はどうやって自分を理解しているのか」
という問いが新たに浮上してくるわけです。
ナレーション
「現存在」とは自分自身を理解しているということ。
しかしそれは自分自身を熟知し明確に説明できるという意味ではありません。
たとえばスキップができる人がそのやり方のすべてを言葉にできるでしょうか?たとえできなくてもやり方は理解しているはずです。むしろ説明無しでスキップできる方が理解している可能性もあります。
ハイデガーは自分自身への理解をこのような意味で捉えています。それはひたすら自分の内面と向き合い、説明を求めることではないのです。
さらに人間はどのようなときも同じように存在しているわけではありません。例えば絶好調の時と機嫌が悪い時の自分はまるで別人のように思えます。しかし、別の存在になったわけではありません。人間の存在には多様な現れ方・様態があり理解するためには様々な様態への分析が必要です。
朗読者
しかし人間のありはあまりにも多様です。
そこでハイデガーは大きく二つに分類しました。
現存在は自己自身であるか、あるいは自己自身でないかという、自己自身のあり方の(2つの)可能性によって自己を理解しているのである。
司会者
ハイデガーは自己自身の2つの理解の可能性として
①本来性
②非本来性
をあげていますね。
戸谷
平たく言えば
①本来性 自分らしさに従って自分を理解
②非本来性 世間の尺度にしたがって自分を理解
この違いというのは例えば
「あなたは何者ですか?」
といきなり聞かれた時
①自分自身のあり方から説明するのが本来性
②世間の尺度によって説明するのが非本来性
ハイデガーはすべての人間が日常においては非本来性だと言っています。この非本来性から人間の無責任さが深く関係することになってくるのですが、それについては次回詳しくお話ししたいと思います。
司会者
ここからハイデガーはどのように現存在に迫っていくのですか?
戸谷
ハイデガーが重視したのは現存在をあくまでもありのままの姿で洞察して解明することでした。そもそもこの存在という言葉、ドイツ語でSeinというのですが、ハイデガーによれば語源的には「何かの傍らにとどまるもの」という意味を持っていたそうなんです。ですので人間が存在するということは何かの傍らに生きているということ、そうした人間の置かれている日常を抜きにして存在を考える事はできないとハイデガーは考えていたんですね。
朗読
現存在に接近する方法も、現存在を解釈する方法も、それによって現存在が自ずと、それ自身の側から、自らを示してくるようなものを選ばねばならない。しかもこうした接近方法も解釈方法も、現存在をそれがさしあたりたいていは存在しているそのあり方で示すべきである。すなわちその平均的な日常性のもとで示すべきなのである。
日常を重んじるハイデガーのアプローチは、花について理解を深めようとする姿勢にも似ています。
たとえばチューリップで考えてみましょう。
ナレーション
チューリップという花を理解するために球根を解剖することは無意味です。まずは芽を出し茎が伸び、それから花が咲くのだということを理解して待たねばなりません。その過程でそのように土に根付くのか水を必要とするのかを知ることができます。こうした環境への理解がチューリップへの理解を深めるのです。
同じように周囲の環境を無視して人間を理解することはできません。
ハイデガーは人間が置かれている環境のことを世界と呼びます。
そしてどんなときでもこうした環境の中で生きているという意味で現存在を「ある世界の内に存在するもの=世界内存在」と呼びました。
朗読
現存在とは本質的に「ある世界の内に存在するもの」である。だから現存在の本質にかかわる存在了解には、「世界」の理解と、この世界のうちで近づくことのできる存在者の存在についての理解とが、等根源的に関わっているのである。
戸谷
この「世界」という言葉なんですが、彼が念頭に置いているのは人間の暮らしの場であると言えると思います。暮らしから人間を切り離してしまったらそれはもう人間ではないと彼はいたのだと思います。ここにも彼の旧来の哲学に対する批判が現れています。
例えばカントは「人間がどのように世界を認識するのか」を問題にしました。このカントの問いかけ自身はとても重要なんですが世界と人間の間にはちょっと分断が生じてしまうわけです。世界を認識している人間だってその世界に生きているわけですよ。この事実を無視してしまったら、人間の理解は不十分なものになってしまう。というのがハイデガーの訴え。
世界というときに私だけの世界ではなくて、他の人もその世界に入ってくる。世界が重なり合っていくわけですね。世界が重なり合っていく中から世間であったり風紀のような場が作り出されていく。
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