ハイデガー「存在と時間」書き起こし その3「本来性」を取り戻す

 

西野真理書き起こしシリーズ   100分で名著 

ハイデガー「存在と時間」 指南役 戸谷洋志

3回「本来性」を取り戻す(4回シリーズ)

 

朗読

現存在の終わりとしての死は、追い越すことのできない可能性である。

 

ナレーション

空気を読み周囲と同調して生きているため、誰もが交換可能になってしまいがちな人間。しかし一つだけ交換ができないものがあります。それは自分の死。

 

ナレーション

第3回はハイデガーの説いた死の概念を入り口に自分らしく生きるには何が必要なのか考えます。

 

司会者

責任を取って生きていくにはどうしたらいいとお考えですか。

 

戸谷

ハイデガーは2つのキーワードを示しています。まず1つ目は前回最後に予告した「死」というものですね。

 

司会者

ハイデガーはこう書いています。

「誰も他人からその人が死ぬことを引き受けてやることはできない」

 

戸谷

世人に支配されている現存在、つまり人間は誰もが空気を読んで生きているので、誰がやっても構わないようなことをして生きているわけなんですが、そうした交換可能性を、死に関しては行うことができないのである。従って死こそが現存在にとって最も固有な可能性であるとハイデガーは考えました。

ここから自分独自の責任を引き受ける生き方は死を通じてこそ見つけることができると彼は訴えたわけです。

朗読

誰も他人からその人が死ぬことを引き受けてやることはできない。死とはそれは死で「ある」限り、その本質からして常にその都度「わたしのもの」としてある。

しかも死とは、各人に固有の現存在の存在が端的に問われるという特別な存在可能性を意味する。

 

ナレーション

いつか死ぬからと終活をする態度では自分の死に向きあっているとはいえません。なぜなら、今ではなくいつかと思いこんでいるからです。ところが私たちは常に死の可能性にさらされています。突然の病気や事故で次の瞬間に死んでしまうこともありうるのです。確実にやってくるものでありながら、いつやってくるかわからない死。ハイデガーはそうした可能性と向き合うことを求めているのです。

 

朗読

現存在の終わりとしての死は、自らに最も固有で、「他者との」関係を喪失し、確実であり、しかも無規定な、追い越すことのできない可能性である。

 

ナレーション

死の可能性を考えるためにこんな状況を想像してください。

嫌々ながらの空気を読み合い、誰もが毎日ハードな残業に苦しむ職場であなたは働いています。無理がたたって体を壊したあなたは余命1年と宣告されてしまいました。そんな状況でもあなたは残された日々を職場に捧げるでしょうか。死に向き合った人間にとって、空気はもはや従っていれば安心できる唯一の正解ではなくなるでしょう。死の可能性に向き合う時、私たちは自分の行き方が世人によって規定されなくてもいいと気づきます。

死が本来の生と向き合わせてくれるのです。

ハイデガーは死の可能性に直面することを「先駆」と呼びました。

 

朗読

「死に臨む存在」として可能性に向かう存在は、死がこの存在においてこの存在にとって可能性としてあらわになるような態度で、死に臨むのである。

このような「可能性に向かう存在」を私たちは用語として可能性への「先駆」と呼ぶことにする。

 

戸谷

先程の例え話はハイデガーの例え話としては不完全な面もあります。というのも、「寿命が残り1年ですよ」と言われている限りは少なくともその1年間は死ぬことがないと約束されていることになってしまうからなんですね。ハイデガーが考えていた「先駆」は日々私達の足元にあるものです。次の瞬間には死んでしまうかもしれないということを常に意識し続けるというのは実はとてもハードルが高い要求であるといえます。

ハイデガーは「死への先駆」が本来性を取り戻す鍵であると考えていました。先駆によって人間は別の行き方も可能だと理解し、自分自身の生き方と向き合うようになると考えました。

 

私が個人的にハイデガーの先駆に近いものを感じるのは、災害が起きたときに「逃げましょうよ」と、普段は他人にはしないような声掛けをして助け合おうとする。空気を読まないで自分が今すべきことを一人ひとり考えて行動できている瞬間なのかなあと思います。そうした場面で先駆が際立って見えてくるということもあると思います。

 

司会者

直ぐに人は不安になるのに自分が死ぬかもしれない時、死と向き合うことはできるんですか?

 

戸谷

それはとても難しいことです。私達が先駆できるためにはそれに伴う不安に対して、何らかの特別な態度を取る必要があるとハイデガーは考えています。その鍵として彼が示すのが第2のキーワードとなる

「良心の呼び声=Ruf(ドイツ語)」です。

 

例えば道に迷っている人がいて、なにか自分に用事があってそれを無視して素通りしてしまったときに、後悔することが人間にはあると思います。そうしたときに私を咎めているように感じるのが良心。

ハイデガーは単なる声ではなく「呼び声」と呼んでいるんです。「おい!」と呼んでくる感じですね。人を覚醒させるような声として捉えていました。

眠っている人を起こすようなイメージですね。

「呼び声は私の存在のあり方、生き方に向けられている」

と言っています。つまり世人に支配されている私に対して別の行き方もできたはずなんじゃないかと気づかせてくれるのが「良心の呼び声」であるということです。

 

「良心は黙しながら呼びかける」

なにか具体的な手がかりを語ってくれるわけではなくてただ覚醒させるだけの声であるということです。こうすればよかったと教えてくれるわけではないんです。

 

ナレーション

良心の呼び声を発するのも呼びかけられるのも自分です。呼びかけられているのはみんなの一員である世人としての自己。呼びかけているのは世人に支配されない本来的な自己です。だからといってハイデガーは良心の呼び声を自ら発して良心的な人になれと説いているのではありません。良心は自分で思うようにコントロールできず絶え間なく発せられているからなのです。

例えて言うなら音楽がかかり続けているような状態。何かの作業に没頭していると音楽に気づかないことはよくあることです。発せられているはずの良心の呼び声を聞くためには敢えて聞こうとする態度が必要。つまり私たちは良心の呼び声を無視するのか耳を傾けるのかを自らが選んでいるというのです。

 

朗読

「良心を持とうと意思すること」に示される現存在の開示性は(中略)現存在において、その良心によって証しされる本来的な開示性であり、この傑出した開示性は、最も固有な負い目ある存在に向けて沈黙の内に不安に耐えながら自らを投企することである。

私達はこれを「決意性」と呼ぼう。

 

戸谷

ここでハイデガーが言っていることを、いじめの例で説明していくと開示性は世界の見え方のようなものです。例えばいじめに加担してしまっている人は教室の中でいじめが起きるのは仕方のないことなんだという風に世界を眺めてしまっているんですね。ところが良心の呼び声に耳を傾ける事ができた人は教室の見え方が変わるわけです。自分はいじめに加担しないこともできたんじゃないかという風にそこで気づくことができるわけです。いじめに加担してしまった、その負い目を引き受けながら正解がどこにもないということに耐えながら自分の行き方を投企する、これは言い換えると、自分の生き方を描き出していくということもできると思います。

 投企=自分の生き方を描き出す

どんな人間でありたいのか、どういう生き方でこれから生きていきたいのかを自分で示していくということですね。それが決意性であるとハイデガーは言っています。

 

決意というと視野を狭めるようなイメージが日本語にはありますが、

ドイツ語ではこれをEntschlossenheit=鎖を断ち切る・鎖から開放される

といいます。狭まった視野を解き放ち様々な可能性が見えてくるというニュアンスを含んだ言葉です。

 

現存在(人間)がどのようにして非本来性から本来性を取り戻すのか、先駆と決意性この2つがあくまでも一体となって作用しなければならない理由を彼は説明していくことになります。

 

朗読

死の無規定性は根源的には不安の内に開示されている。ところが決意性はこの根源的な不安を自らのものとすることを試みるのである。この根源的な不安は、現存在を含むあらゆる隠蔽を取り払う。こうして現存在は、自らが自己自身に委ねられていることに直面させられるのである。

 

本来的な「死への思い」というものは、実存的に自らを見通すようになった「良心を持とうと意志すること」なのである。

 

司会者

ハイデガーにおける自分らしい生き方とは?

 

戸谷

先駆的決意性というのは、自分の人生を自分の人生として引き受けるという生き方であるということができると思います。ここで言う引き受けるというのは他人のせいにしないということですね。

今まで当たり前だと思っていた生き方ができなくなってしまった。それからどういう人生を歩んでいくかは自分で決めるしかないわけですね。そこには正解なんてないし、そういう意味では不安なんだけど、もうその不安の中で生きていきたいと思うことが決意性であると思います。

 

司会者

ハイデガーはこのように言っています。

先駆的な決意性は「負い目ある可能性」を現存在に最も固有な「他者とは」無関係なものとして、良心の内にあますところなく刻み込むのである。

 

戸谷

ここで言う「負い目」と言うのは、くよくよ後悔することではなくて、自分の人生すべて私が私であることに負うのだと考えることでるということができます。

本来的な現存在はたとえみんなの中で過ちに加担してしまうことがあったとしても、それを自分のこととして引き受ける事ができるようになります。その時私はこれからの自分の人生だけではなくて、これまでの自分の人生に対しても責任を引き受けるようになるとハイデガーは考えていました。

 

司会者

ちょっと後ろ向きな考えと言えますか?

 

戸谷

確かに「負い目を引き受けることが重要」なんですが、自分の過去に対して責任を負うということは、これからは自分の人生に責任を負う人間でいたいと志すことで初めて実現する事でもあるということができます。また、私たちは未来に向けて過去を引き受けるんだとハイデガーは考えていて、ここに、過去と未来の連関の中で今を生きている人間に特有な時間のあり方を洞察していました。

 

人の目を気にしないで自分らしく生きていくためには、これまで歩んできた道を全部自分の人生として引き受けないといけない。そこから彼はセットで考えているということですね。

 

司会者

ところで人間という現存在は存在者の中の一つと教わりました。この後他の存在者ですとかじゃあ存在とは何かという根源的な問いに迫っていくんでしょうか。

 

戸谷

実は残念ながらここで終わりになってしまうんです。現存在以外のものを含む存在そのものに迫ってこそ、存在とはないかという問いの答えに迫ることができるはずだったんですが、そうした議論がこれから始まりそうだと読者に予感させたところで「存在と時間」は終わってしまいます。

ただ、ハイデガーの恐るべき点は、こうした未完成な本によってその後の哲学の行く末を完全に決定してしまった。例えて言うと、両腕のないミロのビーナスという彫刻がありますよね。腕が欠けていることがこの作品の魅力を損なっているかというとそうではなく、欠けているところがあるからこそ思いを馳せてしまったりとか想像を膨らませることができるという面もあるのではないかと思っています。

ハイデガーを学術的に研究している人たちは、ハイデガーはこの先どんな結論を描いていたのだろうかということを、当時の彼の講義だとか様々な文献を読んで、なんとか再構成しようとしています。

 

 

幻の関定子津幡中学校コンサート

2022年5月も最後の日になりました。
私は3年前のこの日、何をしていたのでしょう?
普通詳細にはわかりませんよね。でも私はわかるのです。
「5年日記」
というのをつけているからです。
これで3冊目です。
その前の1冊目は10年日記でしたが、10年日記を終えた時点で5年日記に切り替えました。
1ページが5年分の1日になっていて、今日の分を書いていると自動的に前の年のその日のことが目に入ります。
この5年日記は4年目なので3年前までが目に入るわけです。

3年前・2019年5月31日、私は津幡中学校の校長室で少し前に提案した、
「関定子のコンサートを津幡中学校でさせてほしい。謝礼の3分の2は私が負担する」
を、
「教育委員会も含めて前向きに検討する」
という返事をもらいました。
私は以前からずっと、
「生徒にこそ関定子の歌を聞いてほしい」
と思い続けていました。
退職まで3年。最後の学校になる津幡中を逃したらもうチャンスはないのです。

その後、話しは順調に進み、来年度の文化祭でということが決まりました。私は早速関先生にご連絡し、2020年秋の日程の仮押さえさせていただきました。

そんな2019年12月末、武漢で新型コロナ発生のニュースが報じられました。

そして2020年2月
「関定子さんに連絡して日程を押さえてください」
と校長から言われ、2月27日に
「2020年10月16日、文化祭の第1部として関定子コンサート開催」
が決定しました。

ところがまさにその日の夜、安倍総理によって
「3月、学校全休校」
が発表されました。
私は頭を抱えました。頭を抱えるということを本当にするとは思いませんでした。

その後のことはみなさんもご想像のとおりです。
2020年3月3日から津幡中学校は休校。
休校明け、音楽の授業でも歌えない状況の中、
「関定子さんにお断りしてほしい」
と校長から言われてこの話は流れてしまいました。

私は今でも関定子コンサートが開催できなかったことが悔やまれてなりません。

 

ハイデガー「存在と時間」書き起こし その2「不安からの逃避」

 西野真理書き起こしシリーズ   100分で名著 

ハイデガー「存在と時間」 指南役 戸谷洋志

2回「不安」からの逃避(4回シリーズ)

 朗読

「世人」はすべてのことに於いて軽々と責任を引き受けるが、それはどの「ひと」も責任を取る必要のある「ひと」ではないからである。

 

ナレーション

人間に無責任な生き方をもたらす世人(せじん)という概念。それは私達にかりそめの安らぎを与える代わりに、自分で考える力を閉じさせます。

 

戸谷

世人に同調してさえいれば安心できるから。

 

ナレーション

2回は「世人」という概念と不安の正体を考察し私達が無責任となるメカニズムを探ります。

 

司会者

人間は日常の中でどんなふうに存在しているとハイデガーは言っているんですか?

 

戸谷

現存在(人間)は日常において自分を自分ではないものとして理解して生きていると考えています。前回登場したハイデガーの用語でいうと「非本来性」の中で生きているということになります。

自分ではないものによって自分を理解するということは、誰かからまたはどこかから借りてきた言葉で自分を否定していることを意味しています。こうした自分ではないものを私達にもたらすものをハイデガーは「世人」という言葉呼んでいます。

世人は「ひと」とふりがなが振られていますが、音読でのわかりやすさを考えて、「せじん」と呼びます。(ドイツ語=das Man

 

司会者

今の私達にもっとわかりやすい言葉でいうとどうなりますか?

 

戸谷

「世間」であるとか「その場の空気」に近いと思います。

ハイデガーはこの世人という概念から私達が陥っている無責任な状態や同調圧力の問題を分析していくんですね。このあたりの議論というのは現代人の私達にとっても少し耳の痛いものになるかもしれません。

 

朗読

日常的な現存在であるのは誰なのかという問いには、それは世人であると答えられる。この世人とは誰でもないひとであり、この誰でもないひとに、すべての現存在は、「互いに重なり合うように存在」しながら、自らを常にすでに引き渡してしまっているのである。

 

ナレーション

ハイデガーと2つの言葉。世人。何となくみんなもこうしている、こうした方がいいという規範をもたらす空気のようなもの、それが世人です。

日常において現存在=人間は世人に従って生きています。言い換えればどんなときでも人間は空気を読み、みんなが正しいと思うことに照らし合わせて自分を理解しているのです。自らを世人に引き渡してしまった現存在は自然に世人が考えるように考え行動します。その影響は日常の隅々にまで及びます。

例えば読書や絵画鑑賞を楽しんでいるときすら、私たちは空気を読んでいるのです。

 

朗読

私たちは人「ひと」が楽しむように楽しみ、興じる。私達が文学や芸術作品を読み、鑑賞し、批判するのは、「ひと」が鑑賞し、批評するようにである。

私達が「群衆」から身を引くのも、「ひと」が身を引くようにである。私達が「憤慨する」のも、「ひと」が憤慨するようにである。

この世人とは特定のひとではなく、総計ではないとしてもすべてのひとであり、これが日常性の存在様式を定めているのである。

 

司会者

私達の感動や行動は主体性がないと言っているのですか?

戸谷

例えば美術展に行って絵がかかっていて、絵だけ見ているとすごくヘンテコだなあと思うんだけど、その横に解説が書いてあって、例えばピカソのこういうことを表現したとかを読むと、「あ、すごい絵なんだ」というように見方がころっと変わってしまったり。これをハイデガー風に言えば作品そのものを見ているのではなくてみんなが作品をどう評価しているのかを気にしているに過ぎない。

ハイデガーはすべての人間が世人に支配されているんだと考えていました。ですので意思の弱い人が特別非存在的になっているとかそうした事を考えていたわけではないんです。世人という概念は特定の誰と呼ぶことのできないとらえどころのない雲のような不気味な存在としてこの本の中では描かれています。

 

司会者

私は空気読んでなくて自分の意思でそうしましたという人もいますよね。

 

戸谷

大変皮肉な話なんですが、自分だけは空気を読まないで自由に生きてるんだと思っている人の方が実はすごく深く世人に飲み込まれているんだとハイデガーは考えるんですね。

 

型破りっていう言葉はとても面白くて、型破りな事ができるっていうのは型が何であるかわかってないとできないんだと思うんです。ですから型破りな人も実は常識的な人だっていうことになる。

 

司会者

そしてハイデガーはこの世人の生き方をこう言っています。

「頽落(たいらく)ドイツ語=Verfallen

世間の尺度に従った・世人に飲み込まれた生き方

どういう意味ですか?

 

戸谷

別の言葉でいうと「退廃」しているに近い言葉だと思います。

私たちは日常生活において穴に落ちるように世人の中に飲み込まれていってそこから抜け出すことができないのだとハイデガーは考えています。

頽落した人間の特徴をハイデガーは3つ挙げています。

①「世間話」②「好奇心」③「曖昧さ」

 

①「世間話」みんなが理解できること、内容が薄くて表面的なことしか話されなくて次々と関心が移り変わってしまう。②の好奇心ともつながってくる。

 

②「好奇心」

世間に迎合してコロコロと自分が関心があることも変わってしまう。そういう落ち着きの無さを好奇心と言う言葉で表現しています。

 

③「曖昧さ」どういう意見なのかわからないことが語られてしまう。

 

これらのものをいけないというのではなくて、そういうものだと言っている。

人間というものは日常において常に非本質的にしか生きることができないんだ。そういう現状を分析しているのがこの概念であるということですね。

 

世人としての生き方が悪い方に作用していくと自分の頭で考えて判断する機会が失われてしまいます。ここから立ち現れてくる深刻な問題が

「責任の不在」

という問題ですね。責任の不在が暴力と結びつく典型的な例が「いじめ」ではないかと考えています。いじめに加担する人の多くはただその場の空気を読んで何となく一緒になっていじめてしまっているケースが多いのではないでしょうか。みんなと一緒になって誰かをいじめている時に現存在は

「みんなそうしてるんだから、そうしないといけないんだ」

「責任は自分をそうさせた世人にある」

というロジックが働いてきて、結果的には自分を正当化させることができてしまう。

こうやって人間は無責任な状態に陥ってしまうんだとハイデガーは考えていきます。

 

「いじめられている子にいじめられる理由がある」

ということも

「みんながそう思っているから成り立つ」

とハイデガーは言うと思います。

じゃあなんでいじめられる子にはいじめられるに足る理由があると自分は思ったのか、心の底から説明できる人がどれだけいるのか。

朗読

世人はどこにでもいる。しかも現存在が決断を迫られるときには、世人は常に姿を消してしまっている。だが世人はあらゆる決定と決断をすでに与えてしまっているので、それぞれの現存在はもはや責任というものを取ることができなくなっている。

「ひと」はいつも世人を引き合いに出そうとするが、世人はそれを平然と受け入れることができる。

世人はすべてのことについて軽々と責任をひきうけるが、それはどの「ひと」も、責任を取る必要のある「ひと」ではないからである。

 

ナレーション

私達が漠然と人間と呼ぶ「世人」。みんなに合わせている現存在は「みんなもこうしている」という規範に従っているため、自分で責任を引き受けることを免除されています。

しかし、私の代わりに責任を引き受けているはずの「みんな」とは一体誰でしょうか。結局のところそれは誰でもない誰かなのです。みんなに責任があるから誰も責任を引き受けようとしない。それは誰にも責任がないということと同じです。誰もが透明人間のようになって、引き受けるべき責任からするりと逃れているのです。

 

こうした無責任さの究極の例が第2字世界大戦中にナチスドイツにおいてユダヤ人迫害に加担した、アドルフ・アイヒマンの弁明です。

ナチス親衛隊の中佐だったアイヒマンはユダヤ人を強制収容所に輸送する部門で実務を取り仕切っていました。

戦後アルゼンチンに逃げ延びますが、イスラエルの諜報機関によって拘束、強制連行されエルサレムの法廷で裁判にかけられます。この裁判で彼は自身の無罪を主張。

「ドイツの支配者達によって命じられたユダヤ人の絶滅につきましては遺憾に思い非難いたしますが、私自身は防ぎようがなかったのです」

ユダヤ人大量虐殺の責任は、その実行に加担した自分ではなく命令したナチスという組織にあると強弁しました。

世人に支配された人間が陥る最も極端な姿、それがアイヒマンの無責任なのです。

 

戸谷

アイヒマンを批判するなら自分もこうした無責任さで誰かを傷つけているかもしれないということを深く内省する必要があると思います。例えばインターネット上で特定の個人が誹謗中傷を浴びているという行為にも、「みんなが叩いているから自分も便乗しただけなんだ」というような無責任さがひそんでいるように思います。実際にSNS上で誹謗中傷によって自分の命を断ってしまった人もいるわけですね。自分の行動によって生じる他者への責任を考えているのか、いない人がほとんどではないかと思います。

 

しかも近年のSNSは非常に匿名性が高く、拡散機能が充実しているので、そうした暴力への加担をより容易なものにしてしまっているようにも思えます。少し強い言い方をすると我々もアイヒマンと同じ轍を踏む存在かもしれないということを深く自覚すべきではないかと思います。

 

司会者

なぜ私たちはみんなの意見に合わせる世人になってしまうのですか?

 

戸谷

ハイデガーの答えは極めてシンプルです。

「世人に同調してさえいれば安心できるから」

というものです。

 

朗読

世人は充実した真正の「人生」を育み、送っていると思い込んでいるために、現存在のうちにある安らぎをもたらす。そのことで全ては「順調に進んでいる」のであり、この安らぎのうちですべての「可能性の」門戸が開かれていると、現存在に思わせるのである。

現存在が世人のうちに、配慮的に気遣った「世界」のもとに没頭していることによって、現存在は「本来的な自己であり得ること」として自分自身から、いわば逃走していることが明らかになる。

 

戸谷

「世人に同調することの安らぎは本当の安らぎなのか」

これは残念ながら真の安らぎではないということになると思います。

もちろん一時、みんなに同調していれば安心感を得られるんですが、ただその安心感を得るために一層みんなと同じように生きようとして努力が必要になるからです。

 

いじめが支配している教室の中というのは、実際はみんなが誰をいじめようとしているのか敏感に察知しなければならなくて、すごく消耗するという状態にみんなが置かれているのかなあと思います。

 

司会者

不安についてはハイデガーはどう言っているんですか?

 

戸谷

ハイデガーは恐怖と比較して説明しています。恐怖には明確な対象があり、それに対して働きかけをすることができるわけです。ところがハイデガーによると、不安にはそうした明確な対象がないんだ、という風に言うんです。そうだとするとそれに対して働きかけることもできず不安を完全に払拭することができないと彼は考えています。

 

世人の中で完全に同調していてもそれが不安を打ち消すことにはならない。順調に全てが進んでいてもそれでも私達を苛んでくるのが不安なんだとハイデガーは考えています。

 

ハイデガーが「安らぎ」の対義語として捉えているのは不安ではなくて「世人の中に飲み込まれていくこと」なんです。ですので不安の中に踏みとどまることができるのであればそれを安らぎとみなすこともできるかもしれない。

 

朗読

不安が「そのために」不安を感じているものは、現存在の特定の存在様式でも可能性でもない。「不安をもたらす」脅かすものは、それ自体が未規定なものであり、だからあれこれの事実的で具体的な存在可能の内に脅かしつつ侵入してくることはできない。不安が「そのために」不安を感じているものは、世界内存在そのものである。

 

戸谷

「自分が世界内存在であるということ、つまり自分がこの世に生きているということ自体が不安の源泉。だからそういう不安から目をそらすために人間は自分自身の生き方を考えるのをやめて世人に身を委ねて不安を忘れようとするんだ」

と彼は言っています。

 

例えばこんな学生のことを想像してみてください。

学校へ行くのがとてもつらくて学校へ行いけなくなっている。学生は本来学校へ行くべきだという世間の常識を自分に課すことで自分を苦しめていることに彼は気づくわけです。でもじゃあ常識を捨ててしまったらこの学生は救われるかと言ったらそうではないわけです。自分自身の行き方を自分で考えなければならなくなってしまう。そうすると、何も確かなものがない苦しみに苛まれるくらいなら確かなものにしがみついてその結果苦しい方がマシだと思うようになっていく。だから自分から逃げて世人になってしまう。

 

ハイデガーは「人間はどんなときでも世人に飲み込まれている」というんですが、この状態を乗り越えることができる瞬間もあるというんですね。どうすれば現存在が本来性を取り戻して生きて行くことができるのか、それは次の第3回でお話ししたいと思います。

 

 

ハイデガー「存在と時間」書き起こし その1「存在とはなにか」

西野真理書き起こしシリーズの第3段。
NHK 100分で名著 から ハイデガーの「存在と時間」です。
書き起こしシリーズとしては西田幾多郎の「善の研究」、カントの「純粋理性批判」に続いて3作品目です。
全部で4回のシリーズ番組で、4回全部書き起こしてから投稿しようかと思ったのですが、途中で書き起こし作業を放棄してしまわないために、敢えてできたものから投稿することにしました。

他にも撮りためた番組がある中、ハイデガーを取り上げた理由は、ハイデガーの生まれた町メスキルヒは旧宇ノ気町の姉妹都市だからです。哲学つながりなのですね。
あ、それから、私が高校生くらいのときは「ハイデッガー」と覚えていたのですが、いつの間にか「ハイデガー」になってます。

西野真理書き起こしシリーズ   100分で名著 

ハイデガー「存在と時間」 指南役 戸谷洋志

1回「存在とはなにか」(4回シリーズ)

 

「存在と時間」が刊行されたのは1927年ドイツではヒトラー率いるナチスが台頭した時代です。ハイデガーが生きた100年前に現代を重ね「存在と時間」を今読む意義に迫ります。

 

戸谷

キーワードはズバリ、責任です。

私がこの問題に関心をもつようになったきっかけは、2011年の311のときでした。当時SNS上で放射性廃棄物の影響を恐れる人々と楽観視する人々が攻撃的に罵倒し合うような光景を目の当たりにしまして、大変疑問に思ったんですね。その背景には「みんな」がしているから自分もやっていいというある種の無責任さがあったんではないかなあと思います。

こうした問題を考えていくときに「存在と時間」は大きな手がかりになると思っておりまして、私達の日常に結びつけて考えていきたいと思っています。

 

司会者

この本は「反面教師」として読む一面もあるんですよね。

 

戸谷

はい。というのも「存在と時間」の著者ハイデガーはまさに人々を無責任な暴力へと先導していったナチスに加担してしまった哲学者でもあるからです。

 

司会者

1927年「存在と時間」の刊行で一躍時代の寵児となったハイデガーなんですけれども、1933年にナチスに入党するんですね。

 

戸谷

人間のあるべき姿を追求していたはずのハイデガーがなんでナチスに加担してしまったのか。これは当時の哲学界に大きな衝撃を与えることになってしまいました。ただ「存在と時間」をよく読んでみると、こうしたハイデガーの行動を批判するような内容が書かれているんです。今回は両義的な視点で迫っていきたいと考えています。

 

ナレーション

ハイデガーは1889年ドイツ南部の静かな田舎町メスキルヒで生まれました。

二十歳の時(1909年)に故郷を離れ名門フライブルグ大学に入学。当初の専攻はキリスト教神学でしたが、フッサールの著作から哲学にのめり込み哲学部に編入します。卒業後は郵便局で仕事をする傍ら固定給の支払われない講師として大学で教えていました。

 

不安定な講師職を脱したのはマールブルク大学に移った34歳の時(1923年)。しかしここでのポジションも員外教授という教授会のメンバーとみなされない不遇なものでした。昇進を阻んでいたのはおよそ10年間著作がないということでした。「とにかく1冊書かなければ」焦りをいだきつつ37歳の時体育館で書き上げたのが「存在と時間」です。

 

当時は上下で2巻となる著作の予定でしたがとりあえず前半を単行本として出版します。発表直後から高い評価を得たハイデガーがはマールブルク大学正教授の地位を獲得。さらに翌1928年、母校フライブルク大学哲学部教授に就任します。

 

戸谷

時間がなかったハイデガーは書けたところから印刷に回して印刷が進んでいる間に続きを書くというような非常にタイトなスケジュールで「存在と時間」を書いていきました。

こうした無理がたたったためか上巻が出版された後、下巻を書き進めることができなくなってしまいました。それでも当時の哲学界に与えた影響は非常に大きなものでした。

ハイデガーがそれ以前の西洋哲学を根本から批判してそれをひっくり返すような問題提起をしたからなんですね。

「実は私たちは存在というものをよくわかっていないんじゃないか。それなのに哲学の中でこの問題は解決されたものであるかのように語られている」という問題提起をしたんですね。

 

伊集院

なぜ哲学の中で「存在」が問題になるんですか?

 

戸谷

「存在というのは哲学だけではなくてあらゆる学問の基礎なんだ」という風に彼は考えていたですね。

例えば数学という学問は数という概念を最も基礎的な概念としているかもしれないし、物理学という学問は物体や物だと思うんですね。じゃあ数とか物体というものがそもそもなにかというと「存在」のあり方の一つ。じゃあ「存在」がわかっていなかったらそれを前提にしている数とか物体の概念もよくわからないということになる。したがってあらゆる学問の基礎を考える上でもっとも重要な問題なんだと彼は考えたんです。

 

司会者

では、存在という概念とはなにかということについて考えていきたいと思います。

ハイデガーによりますと私たちは、存在という概念を今この瞬間にものが目の前にあることだと理解していると言うんです。ハイデガーはここに疑問をもったわけです。

 

戸谷

この考え方では説明することができないような存在のあり方もあると彼は考えたんです。例えば人間。人間は誰しも過去の経験や思い出を持っていますし未来への展望を持って生きていると思います。人間はただ単にこの瞬間に生きているんじゃなくて現在意外の時間とも繋がりを持って存在しているんです。

「今この瞬間に物がある」

という理解では人間の存在を正しく捉えることができないとハイデガーは考えたんです。

 

縄文時代の土器がここにあるとして、この土器は現在にあるわけですよ。でも私たちはこの土器から縄文時代の存在を確かめる事ができるわけです。じゃあ縄文時代ってそもそもどうやって存在するのか。これは先程のような目の前に物があるということでは説明のできないあり方。

 

朗読:冒頭の言葉

私達は現在「存在している」(ザイエント)と言うことで、そもそも何を言おうとしているかという問いに何らかの答えを持っているだろうか。いかなる答えも持っていない。だからこそ存在の意味への問いを新たに設定する必要がある。

 

朗読者

「存在の意味への問いを新たに設定する必要がある」

なぜでしょうか?

それは存在しているという言葉が一体何を指しているのかがそもそもわからなくなっているからだとハイデガーは言います。

 

例えば今みなさんがご覧になっているテレビ。これは存在でしょうか?ハイデガーによると

「それは存在しているも物であって存在そのものではない」

と。

こんがらがってきましたね。

 

ナレーション

例えば「テレビがある」という文章においてテレビはあくまで存在しているものであって存在そのものではないとハイデガーは言います。存在という概念として考えられるべきなのは、存在しているものではなく

「がある」

の方なのです。

 

ところがこれまでの哲学は存在の意味を解き明かすためにテレビに当たるものにばかり考えをめぐらしていたとハイデガーは指摘しました。

「〇〇がある」

という言葉のうち、

〇〇に当てはまるののが存在しているもの=存在者(ザイエント)

がある=存在(ザイン)

と呼んでハイデガーは両者を区別しました。そして

「存在者よりも存在について考えるべきだ」

と主張したのです。

 

哲学史においてハイデガーが成し遂げたことは「存在とはなにか」という言葉を洗練させ刷新することでした。

つまり問いに対する答えを出したのではなく、より望ましい答え方に迫るための問い方を提示したのです。

 

朗読

存在の問いを問うということが、ある存在者の存在様態であることを考えるならば、この問いはこの問いにおいて問われているものによって、すなわちその存在によって、本質的に規定されていることになる。

この存在者は、そのつど私達自身なのであり何よりも問うということを自らの可能性の一つとして備えている存在者なのである。

ここでこの存在者を呼ぶために現存在(ダーザイン)という術語を定めたい。

 

戸谷

存在しているものをハイデガーはまず「存在者(ザイエント)」と呼んでいます。そうした存在者の中で存在の意味を問うことのできる存在者にハイデガーは「現存在(ダーザイン)」という特別な名前を与えています。まずこの問題について考える人間の存在について考えていこうということなんですね。

「人間」という言葉を使ってしまうと偏見や先入観が入ってしまうから。

当たり前を洗い落としより純度の高い思考をすすめていこうというのが、ハイデガーの意図だと思います。

 

「現存在」というのは自分自身の存在を理解しているということです。

ここから

「それじゃあ人間はどうやって自分を理解しているのか」

という問いが新たに浮上してくるわけです。

 

ナレーション

「現存在」とは自分自身を理解しているということ。

しかしそれは自分自身を熟知し明確に説明できるという意味ではありません。

たとえばスキップができる人がそのやり方のすべてを言葉にできるでしょうか?たとえできなくてもやり方は理解しているはずです。むしろ説明無しでスキップできる方が理解している可能性もあります。

ハイデガーは自分自身への理解をこのような意味で捉えています。それはひたすら自分の内面と向き合い、説明を求めることではないのです。

 

さらに人間はどのようなときも同じように存在しているわけではありません。例えば絶好調の時と機嫌が悪い時の自分はまるで別人のように思えます。しかし、別の存在になったわけではありません。人間の存在には多様な現れ方・様態があり理解するためには様々な様態への分析が必要です。

 

朗読者

しかし人間のありはあまりにも多様です。

そこでハイデガーは大きく二つに分類しました。

 

現存在は自己自身であるか、あるいは自己自身でないかという、自己自身のあり方の(2つの)可能性によって自己を理解しているのである。

 

司会者

ハイデガーは自己自身の2つの理解の可能性として

①本来性

②非本来性

をあげていますね。

 

戸谷

平たく言えば

①本来性  自分らしさに従って自分を理解

②非本来性 世間の尺度にしたがって自分を理解

この違いというのは例えば

「あなたは何者ですか?」

といきなり聞かれた時

①自分自身のあり方から説明するのが本来性

②世間の尺度によって説明するのが非本来性

 

ハイデガーはすべての人間が日常においては非本来性だと言っています。この非本来性から人間の無責任さが深く関係することになってくるのですが、それについては次回詳しくお話ししたいと思います。

 

司会者

ここからハイデガーはどのように現存在に迫っていくのですか?

 

戸谷

ハイデガーが重視したのは現存在をあくまでもありのままの姿で洞察して解明することでした。そもそもこの存在という言葉、ドイツ語でSeinというのですが、ハイデガーによれば語源的には「何かの傍らにとどまるもの」という意味を持っていたそうなんです。ですので人間が存在するということは何かの傍らに生きているということ、そうした人間の置かれている日常を抜きにして存在を考える事はできないとハイデガーは考えていたんですね。

 

朗読

現存在に接近する方法も、現存在を解釈する方法も、それによって現存在が自ずと、それ自身の側から、自らを示してくるようなものを選ばねばならない。しかもこうした接近方法も解釈方法も、現存在をそれがさしあたりたいていは存在しているそのあり方で示すべきである。すなわちその平均的な日常性のもとで示すべきなのである。

 

日常を重んじるハイデガーのアプローチは、花について理解を深めようとする姿勢にも似ています。

 

たとえばチューリップで考えてみましょう。

 

ナレーション

チューリップという花を理解するために球根を解剖することは無意味です。まずは芽を出し茎が伸び、それから花が咲くのだということを理解して待たねばなりません。その過程でそのように土に根付くのか水を必要とするのかを知ることができます。こうした環境への理解がチューリップへの理解を深めるのです。

同じように周囲の環境を無視して人間を理解することはできません。

ハイデガーは人間が置かれている環境のことを世界と呼びます。

そしてどんなときでもこうした環境の中で生きているという意味で現存在を「ある世界の内に存在するもの=世界内存在」と呼びました。

 

朗読

現存在とは本質的に「ある世界の内に存在するもの」である。だから現存在の本質にかかわる存在了解には、「世界」の理解と、この世界のうちで近づくことのできる存在者の存在についての理解とが、等根源的に関わっているのである。

 

戸谷

この「世界」という言葉なんですが、彼が念頭に置いているのは人間の暮らしの場であると言えると思います。暮らしから人間を切り離してしまったらそれはもう人間ではないと彼はいたのだと思います。ここにも彼の旧来の哲学に対する批判が現れています。

例えばカントは「人間がどのように世界を認識するのか」を問題にしました。このカントの問いかけ自身はとても重要なんですが世界と人間の間にはちょっと分断が生じてしまうわけです。世界を認識している人間だってその世界に生きているわけですよ。この事実を無視してしまったら、人間の理解は不十分なものになってしまう。というのがハイデガーの訴え。

 

世界というときに私だけの世界ではなくて、他の人もその世界に入ってくる。世界が重なり合っていくわけですね。世界が重なり合っていく中から世間であったり風紀のような場が作り出されていく。

 


雄花 2022年5月30日

今朝ついに雄花が咲きました。(上を向いて咲いているほう)
雌花は3つも咲きました。















私の受粉の様子を野良猫(グレちゃん)が見張っています。


津田梅子

 5月26日のブログに
「明日来て続きを読みます」
と書いていた津田梅子の伝記、1日遅れで昨日読みに行きました。
小学生並みの感想を書けば
「すごい人だと思いました」
につきます。











すごいのですが、これはもう、神様の思召としか思えませんね。
あの時代に8歳で渡米して10年間、赤の他人の外国人夫妻に育てられるわけですが、同じような環境に放り込まれたからといって、誰もが梅子のようになれるはずがありません。
頭の良さ、我慢強さ、利かん気の強さ、ユーモア、そして健康。全てが備わった梅子だったからこそあのような偉業ができたのですね。
特に「我慢強さ」というのはただ我慢強いのではなく、我慢してもその先にある目標を達成しようと虎視眈々とその日に備えて待つという用意周到さあってこそ。

読んでみて初めて知り驚いたことの一つとして、私はあのよく写真で見る女の子5人がアメリカに送り込まれたくらいに思っていたのですが、当時の政府としてはそれは「おまけ」のようなもので、男性は100人以上いたのです。そしてその男性たちは帰国後、官職が与えられましたが梅子たちにはありませんでした。アメリカで「男女平等」を目の当たりにしてきた梅子、それがどんなに悔しかったことか。

ほかにも、なにかしようとするものの経済的には苦しく、味方だと思っていた人が裏切るというわけではないのでしょうが、思いもよらぬ方向へ行ってしまう。それでも志を貫いて奮起し、たった10名から今の津田塾大学につながる私塾を開校したあの精神力にはただただ感心するばかりです。

心に残った言葉。
「与えられたものはより多くを与えなければならない」

最後に一つ。
この伝記を書かれた古木宜志子さん。(「人と思想 116 津田梅子」清水書院)
この方が多くの資料からよくここまでまとめてこの伝記を書かれたことと、その点にも大変感動しました。津田塾大学の名誉教授でいらっしゃるようです。







2年前、コロナ休校中の写真

 スマホに保存してある写真をGoogle様が時々
「これ、1週間前ですよ」とか「1年前ですよ」
とお知らせしてくれませんか?設定によるようですが。
私のスマホはいつの間にかそういう設定になっていたらしくそういうお知らせが時々来ます。

そんな今朝、「2年前の今週」の写真が表示されました。
学校です。
たった2年前でも覚えていたり覚えていなかったり。
ただ今回の2年前は、新型コロナで休校になり普段見られない様子も写真に残されていたのでブログに残しておくことにしました。

学校の廊下です。
上り下りの生徒が接触しないよう区分けするために階段に貼られました。














YouTubeを撮影している学校の音楽室。撮影後片付けかけて
「この状況を写真に撮っておこう」
と思って撮ったなあ、という記憶があります。

音楽室内。
普段の授業はカーテンを背にして。
カーテンが閉めてあるのは、こちらが東向きで夏の直射日光が凄まじいからです。
右奥のドアの向こうは準備室で、ここが私のYouTube撮影中の楽屋になっていました。










この日の撮影後。
ホワイトボードを背にして授業動画を撮っていました。










下に落ちているのは、この日使ったホワイトボードに貼るための材料だと思われます。
台本づくりからこういう資料作り編集・アップまで、たった15分弱の動画に6時間ほどかかっていました。売れているYouTuberさんたちをとても尊敬するようになりました。






最終段階。
学校のパソコンでアップするところ。
一人、薄暗い印刷室の隅でやっていました。この作業は職員個人に与えられたパソコンで
はできないので。

ズッキーニ受粉 2022年5月28日

今年は2種4株のズッキーニを植え、今日初開花。3つの花が咲きました。
「さあ受粉させよう」
と張り切って庭に出てみると、全部雌花。





























あ~これは同しようもない・・・と思うところですが、なんと昨年から用意してあったものが冷凍庫に。
そう、冷凍雄しべです。
昨年も雌花と雄花の咲くバランスが悪く、雄花ばかり咲いたときに雄しべを冷凍することを思いつき、その時の余りがそのまま冷凍庫にあったのです。














↑これを使って受粉させてみました。
結果はまたブログにアップしますが、受粉がうまくいかない場合は実がこれ以上大きくならずそのまましおれてしまうことになります。

GoogleStreet View撮影車発見

 GoogleStreet View撮影車発見!

都会ではしょっちゅう走っているかもしれませんが、田舎ではなかなかない体験だと思います。「GoogleStreet View」の名前の入ったカラフルな車を発見したので思わずあちこちの方向から撮影しました。もちろん誰も乗っていないことを確認して。

見つけたのは歯医者さんの帰り道。お天気もいいし、運動した方がいいし、ガゾリンは高いしで歩いて行ったのが幸運でした。

発見場所は宇ノ気中学校前の駐車場。



車天井のカメラ










撮り終えてさろうとしたら、前方から黒いTシャツ、黒い帽子の男性がコーラを持って歩いてきて、車に乗り込みました。
「・・・あ、写真撮ってるのバレたかな、怒られたらどうしよう・・・」
と思いながら素知らぬ顔ですれ違いました。

数秒後、私とすれ違うように駐車場を出ながらその男性は私に会釈をして去っていきました。
流石Google社から雇われた方、礼儀正しいです。

バラ園(よつやなぎ動物病院)

 かほく市のイオン近くにある「よつやなぎ動物病院」の院長さんはバラが趣味で、普通にお花を育てているというレベルを遥かに超えたバラ園を仕事の合間を縫ってお作りになっています。しかもそれを無料で一般開放。
ここ数年はこの時期になると必ず見に行きます。
私のYouTubeチャンネルは「西野真理チャンネル」の他にピアニストお二人、酒井珠江さん・近藤陽子さんとやっている「日本歌曲の窓」というチャンネルがありますが、そのアイコンになっている写真はここのバラ園です。あのときはまだ全てに初心者で、たまたま撮った写真をいい加減に貼り付けてしまいましたが、そう悪くもないかなと思っています。

昨日は曇りでしたし、まだもっと咲きそうなのと、写真の撮り方が下手なのとで、近日中にまたアップしますね。

バラ園を外から見たところ。
この写真は、この向かいにある動物病院を背にして撮っています。














Sing幾多郎 6月の予定

 2022年6

  毎週日曜日と水曜日

  「Sing幾多郎」開催いたします 

   ご来場をお待ちしております

場所  石川県かほく市宇野気ト110-1

    本町コミュニティセンター

時間  10:00~10:50(開場9:45)

参加費 1回 1500円(当日受付にて)

参加資格 高校生以上110歳以下


Sing幾多郎開催については

「西野真理 ブログ」で

 ご確認をお願いいたします

 

・基本は月単位でのお知らせ

  ・毎週水曜日と日曜日に開催

参加は毎回自由ですので

個人向けのご案内はございません

必ずブログでご確認の上お出かけくださいませ

特別な記述のない場合は開催です

(ブログには日々の様々な事が書かれているため、

 サイト内検索で「Sing幾多郎」と入力していただくと

 関連記事が出てきます)

 

<開催できないことが予想される場合>

・主宰者の急用・急病

   →この場合も極力1日前までには

ブログでお知らせいたします

・本町コミュニティセンターの鍵がない

    →実際2回目の時、返却場所になくて焦りましたが、

町会長さんにお借りし事なきを得ました

 

・本町コミュニティセンターを本町町会が使用する

         →センター利用のお約束として、町会使用の場合は

そちらを優先することになっています


西野真理の色々なお話

お山の大将ピアノ伴奏 2024年11月25日(月)

このブログは 野口芳宏先生記念碑「師道の碑」除幕・祝賀パーティー 2024年11月23日(土) をお読みになってからどうぞ。 ↑そういうわけで、野口先生にもぜひ「お山の大将」をお歌いいただければいいなと思い、ピアノ伴奏をYouTubeにアップしてみました。いつも書いていますがピア...