西野真理書き起こしシリーズ 100分で名著
ハイデガー「存在と時間」 指南役 戸谷洋志
第3回「本来性」を取り戻す(4回シリーズ)
朗読
現存在の終わりとしての死は、追い越すことのできない可能性である。
ナレーション
空気を読み周囲と同調して生きているため、誰もが交換可能になってしまいがちな人間。しかし一つだけ交換ができないものがあります。それは自分の死。
ナレーション
第3回はハイデガーの説いた死の概念を入り口に自分らしく生きるには何が必要なのか考えます。
司会者
責任を取って生きていくにはどうしたらいいとお考えですか。
戸谷
ハイデガーは2つのキーワードを示しています。まず1つ目は前回最後に予告した「死」というものですね。
司会者
ハイデガーはこう書いています。
「誰も他人からその人が死ぬことを引き受けてやることはできない」
戸谷
世人に支配されている現存在、つまり人間は誰もが空気を読んで生きているので、誰がやっても構わないようなことをして生きているわけなんですが、そうした交換可能性を、死に関しては行うことができないのである。従って死こそが現存在にとって最も固有な可能性であるとハイデガーは考えました。
ここから自分独自の責任を引き受ける生き方は死を通じてこそ見つけることができると彼は訴えたわけです。
朗読
誰も他人からその人が死ぬことを引き受けてやることはできない。死とはそれは死で「ある」限り、その本質からして常にその都度「わたしのもの」としてある。
しかも死とは、各人に固有の現存在の存在が端的に問われるという特別な存在可能性を意味する。
ナレーション
いつか死ぬからと終活をする態度では自分の死に向きあっているとはいえません。なぜなら、今ではなくいつかと思いこんでいるからです。ところが私たちは常に死の可能性にさらされています。突然の病気や事故で次の瞬間に死んでしまうこともありうるのです。確実にやってくるものでありながら、いつやってくるかわからない死。ハイデガーはそうした可能性と向き合うことを求めているのです。
朗読
現存在の終わりとしての死は、自らに最も固有で、「他者との」関係を喪失し、確実であり、しかも無規定な、追い越すことのできない可能性である。
ナレーション
死の可能性を考えるためにこんな状況を想像してください。
嫌々ながらの空気を読み合い、誰もが毎日ハードな残業に苦しむ職場であなたは働いています。無理がたたって体を壊したあなたは余命1年と宣告されてしまいました。そんな状況でもあなたは残された日々を職場に捧げるでしょうか。死に向き合った人間にとって、空気はもはや従っていれば安心できる唯一の正解ではなくなるでしょう。死の可能性に向き合う時、私たちは自分の行き方が世人によって規定されなくてもいいと気づきます。
死が本来の生と向き合わせてくれるのです。
ハイデガーは死の可能性に直面することを「先駆」と呼びました。
朗読
「死に臨む存在」として可能性に向かう存在は、死がこの存在においてこの存在にとって可能性としてあらわになるような態度で、死に臨むのである。
このような「可能性に向かう存在」を私たちは用語として可能性への「先駆」と呼ぶことにする。
戸谷
先程の例え話はハイデガーの例え話としては不完全な面もあります。というのも、「寿命が残り1年ですよ」と言われている限りは少なくともその1年間は死ぬことがないと約束されていることになってしまうからなんですね。ハイデガーが考えていた「先駆」は日々私達の足元にあるものです。次の瞬間には死んでしまうかもしれないということを常に意識し続けるというのは実はとてもハードルが高い要求であるといえます。
ハイデガーは「死への先駆」が本来性を取り戻す鍵であると考えていました。先駆によって人間は別の行き方も可能だと理解し、自分自身の生き方と向き合うようになると考えました。
私が個人的にハイデガーの先駆に近いものを感じるのは、災害が起きたときに「逃げましょうよ」と、普段は他人にはしないような声掛けをして助け合おうとする。空気を読まないで自分が今すべきことを一人ひとり考えて行動できている瞬間なのかなあと思います。そうした場面で先駆が際立って見えてくるということもあると思います。
司会者
直ぐに人は不安になるのに自分が死ぬかもしれない時、死と向き合うことはできるんですか?
戸谷
それはとても難しいことです。私達が先駆できるためにはそれに伴う不安に対して、何らかの特別な態度を取る必要があるとハイデガーは考えています。その鍵として彼が示すのが第2のキーワードとなる
「良心の呼び声=Ruf(ドイツ語)」です。
例えば道に迷っている人がいて、なにか自分に用事があってそれを無視して素通りしてしまったときに、後悔することが人間にはあると思います。そうしたときに私を咎めているように感じるのが良心。
ハイデガーは単なる声ではなく「呼び声」と呼んでいるんです。「おい!」と呼んでくる感じですね。人を覚醒させるような声として捉えていました。
眠っている人を起こすようなイメージですね。
「呼び声は私の存在のあり方、生き方に向けられている」
と言っています。つまり世人に支配されている私に対して別の行き方もできたはずなんじゃないかと気づかせてくれるのが「良心の呼び声」であるということです。
「良心は黙しながら呼びかける」
なにか具体的な手がかりを語ってくれるわけではなくてただ覚醒させるだけの声であるということです。こうすればよかったと教えてくれるわけではないんです。
ナレーション
良心の呼び声を発するのも呼びかけられるのも自分です。呼びかけられているのはみんなの一員である世人としての自己。呼びかけているのは世人に支配されない本来的な自己です。だからといってハイデガーは良心の呼び声を自ら発して良心的な人になれと説いているのではありません。良心は自分で思うようにコントロールできず絶え間なく発せられているからなのです。
例えて言うなら音楽がかかり続けているような状態。何かの作業に没頭していると音楽に気づかないことはよくあることです。発せられているはずの良心の呼び声を聞くためには敢えて聞こうとする態度が必要。つまり私たちは良心の呼び声を無視するのか耳を傾けるのかを自らが選んでいるというのです。
朗読
「良心を持とうと意思すること」に示される現存在の開示性は(中略)現存在において、その良心によって証しされる本来的な開示性であり、この傑出した開示性は、最も固有な負い目ある存在に向けて沈黙の内に不安に耐えながら自らを投企することである。
私達はこれを「決意性」と呼ぼう。
戸谷
ここでハイデガーが言っていることを、いじめの例で説明していくと開示性は世界の見え方のようなものです。例えばいじめに加担してしまっている人は教室の中でいじめが起きるのは仕方のないことなんだという風に世界を眺めてしまっているんですね。ところが良心の呼び声に耳を傾ける事ができた人は教室の見え方が変わるわけです。自分はいじめに加担しないこともできたんじゃないかという風にそこで気づくことができるわけです。いじめに加担してしまった、その負い目を引き受けながら正解がどこにもないということに耐えながら自分の行き方を投企する、これは言い換えると、自分の生き方を描き出していくということもできると思います。
投企=自分の生き方を描き出す
どんな人間でありたいのか、どういう生き方でこれから生きていきたいのかを自分で示していくということですね。それが決意性であるとハイデガーは言っています。
決意というと視野を狭めるようなイメージが日本語にはありますが、
ドイツ語ではこれをEntschlossenheit=鎖を断ち切る・鎖から開放される
といいます。狭まった視野を解き放ち様々な可能性が見えてくるというニュアンスを含んだ言葉です。
現存在(人間)がどのようにして非本来性から本来性を取り戻すのか、先駆と決意性この2つがあくまでも一体となって作用しなければならない理由を彼は説明していくことになります。
朗読
死の無規定性は根源的には不安の内に開示されている。ところが決意性はこの根源的な不安を自らのものとすることを試みるのである。この根源的な不安は、現存在を含むあらゆる隠蔽を取り払う。こうして現存在は、自らが自己自身に委ねられていることに直面させられるのである。
本来的な「死への思い」というものは、実存的に自らを見通すようになった「良心を持とうと意志すること」なのである。
司会者
ハイデガーにおける自分らしい生き方とは?
戸谷
先駆的決意性というのは、自分の人生を自分の人生として引き受けるという生き方であるということができると思います。ここで言う引き受けるというのは他人のせいにしないということですね。
今まで当たり前だと思っていた生き方ができなくなってしまった。それからどういう人生を歩んでいくかは自分で決めるしかないわけですね。そこには正解なんてないし、そういう意味では不安なんだけど、もうその不安の中で生きていきたいと思うことが決意性であると思います。
司会者
ハイデガーはこのように言っています。
先駆的な決意性は「負い目ある可能性」を現存在に最も固有な「他者とは」無関係なものとして、良心の内にあますところなく刻み込むのである。
戸谷
ここで言う「負い目」と言うのは、くよくよ後悔することではなくて、自分の人生すべて私が私であることに負うのだと考えることでるということができます。
本来的な現存在はたとえみんなの中で過ちに加担してしまうことがあったとしても、それを自分のこととして引き受ける事ができるようになります。その時私はこれからの自分の人生だけではなくて、これまでの自分の人生に対しても責任を引き受けるようになるとハイデガーは考えていました。
司会者
ちょっと後ろ向きな考えと言えますか?
戸谷
確かに「負い目を引き受けることが重要」なんですが、自分の過去に対して責任を負うということは、これからは自分の人生に責任を負う人間でいたいと志すことで初めて実現する事でもあるということができます。また、私たちは未来に向けて過去を引き受けるんだとハイデガーは考えていて、ここに、過去と未来の連関の中で今を生きている人間に特有な時間のあり方を洞察していました。
人の目を気にしないで自分らしく生きていくためには、これまで歩んできた道を全部自分の人生として引き受けないといけない。そこから彼はセットで考えているということですね。
司会者
ところで人間という現存在は存在者の中の一つと教わりました。この後他の存在者ですとかじゃあ存在とは何かという根源的な問いに迫っていくんでしょうか。
戸谷
実は残念ながらここで終わりになってしまうんです。現存在以外のものを含む存在そのものに迫ってこそ、存在とはないかという問いの答えに迫ることができるはずだったんですが、そうした議論がこれから始まりそうだと読者に予感させたところで「存在と時間」は終わってしまいます。
ただ、ハイデガーの恐るべき点は、こうした未完成な本によってその後の哲学の行く末を完全に決定してしまった。例えて言うと、両腕のないミロのビーナスという彫刻がありますよね。腕が欠けていることがこの作品の魅力を損なっているかというとそうではなく、欠けているところがあるからこそ思いを馳せてしまったりとか想像を膨らませることができるという面もあるのではないかと思っています。
ハイデガーを学術的に研究している人たちは、ハイデガーはこの先どんな結論を描いていたのだろうかということを、当時の彼の講義だとか様々な文献を読んで、なんとか再構成しようとしています。