NHKの10分番組 映像ファイル「あの人に会いたい」というのがあって、私はこれを自動録画に設定しています。興味がなければそのまま削除することもありますが大体見ています。
今日ブログに書くことにした小柴昌俊さんは「カミオカンデ」でなんだかした物理学者さんで、なんとなく興味はあったもののよく知らないままでいたところ、この番組で取り上げてくださり自動録画されていたので観ることにしました。
本当は要約して書こうと思っていたのですが、番組書き起こしに変更します。上手に要約できないだろうという判断をしたからです。
小柴昌俊(2020年94歳没 1926-2020)
平成14年(2002年)にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊さん。
岐阜県の山中に巨大な観測装置を作り超新星爆発によって放出された素粒子・ニュートリノの観測に世界で初めて成功。ニュートリノ天文学という新しい分野を開拓しました。
小柴「世界の誰もやったことがないことだと。それで人が測りたくても測れなかったものをこれから測るんだっていうのはね、これは楽しいですよね」
小柴さんは大正15年愛知県豊橋市生まれ。父親は陸軍将校。長男として軍人になることを期待されていました。しかし、13歳の時ポリオに感染し手足に麻痺が残ったため断念。それでも中学校までの4キロの道のりを2時間以上かけ、歩いて通学したといいます。
小柴「他の生徒より1時間早く家を出てよたよたと歩いてた。でもね、それを2月も続けたらね、足の方も段々と強くなってね、それで普通の人に近く使えるようになった」
物理学との出会いは担任教師にもらった1冊の本(「物理学はいかに作られたか」著者・アインシュタイン、インフェルト)がきっかけでした。
小柴「アインシュタインの『一般制相対性理論』の基礎になるような本で、中学1年生では到底理解できるような本じゃないんですね。へぇ~物理ってこんなことをやる学問なのかな。それだけが印象に残ったんですね」
昭和23年旧制第1高等学校から東京大学理学部物理学科に進学。この翌年、湯川秀樹が日本人として初めてノーベル賞を受賞し、湯川が研究していた理論物理学が一躍脚光を浴びます。
小柴さんも、数式だけで様々な物理現象を解き明かす理論物理学を志しますが、成績が振るいませんでした。
司会者「実際成績は、ここに成績表のコピーも頂いていますが、あまりいい成績ではなかった(笑)」
小柴「そうなんですよ。周りの人達を見てみるとね、自分よりずっとよくできるわけよ。それでね『物理をやって一生飯食えるのかな』というのは心配だったですね」
自分は物理学には向いていない、そう思いながらも進学した大学院で転機は訪れます。最新の実験物理学に出会ったのです。
このころ原子核乾板という特殊なフィルムに改良が加えられ、それまで理論上は存在するとされてきた様々な素粒子を実際に観察することができるようになっていました。
小柴「あ、これなら俺やれるよ、ということが実感として湧いたんでね。そうなったらしめたもんでね、周りの人からもっと頑張れなんて言われなくたってね、じぶんでどんどんどんどんやっていくようになっちゃうよ」
26歳でアメリカに留学。わずか1年8ヶ月で博士号を取得し帰国後は東京大学原子核研究所の助教授に就任。昭和35年には多くの国が参加し莫大な費用をかけて行われる国際共同実験のリーダーに抜擢されます。
小柴「実はその時私は自分で自身がなかったんですよ。そんなねえ、12カ国の学者連中が集まってて100万ドルの計画なんて指揮とれるとは思わなかった」
遙か35キロメートル上空に巨大な風船を浮かべ宇宙から降り注ぐ素粒子を解析するという壮大な実験。(アメリカジョージア州)
しかし、風船に雷が落ちてコントロールを失い、実験装置が回収できなくなってしまいます。
小柴「太平洋艦隊の司令部に電話して、太平洋艦隊の参謀にね『あれを撃ち落とせ』と」
遙か太平洋の彼方まで流された風船を米軍の戦闘機や駆逐艦まで繰り出して追跡しましたが結局見つけることは出来ませんでした。
司会者「実験としては失敗?」
小柴「それは失敗だった。一つの事業をねやり遂げようと考える時、最悪の事態がおこるってことを想定して準備しなきゃいかんと」
翌年実験は見事に成功。この時得た教訓は後に大きく役立つことになります。
昭和45年東京大学理学部教授となった小柴さん、これまで誰もやったことのない新たな実験に取り組みます。テーマは、宇宙にいつか終わりが来るという命題の鍵を握る言われる
「陽子崩壊」
原子核を構成する粒子の一つである陽子に寿命があるという理論を証明するため、その崩壊の瞬間を観測しようというのです。宇宙から降り注ぐ素粒子の影響を避けるため、観測装置は地下1000メートルにある鉱山のあとに作られました。
小柴「地下に3000トンのきれいな水を入れてそれで周りを光電子増倍管で囲むと」
タンクに貯めた大量の水を観測し、陽子が壊れた瞬間に出るかすかな光を捉える光電子増倍管。同じ実験を計画するアメリカに対抗するためこの機器に工夫をこらします。
小柴「なんとか安く感度を上げたいってんで、ひとつの光電子増倍管をうんと大きくしてやろうと。アメリカの光電子増倍管は直径12.5cm、日本のは直径50cm。それで面積で比べてみると直径が4倍ですから面積は16倍でしょ。だからアメリカの実験に比べて16倍感度がいいという実験になれたわけですよ」
↓浜松ホトニクスの画像より
↓東京大学理学部ページより
完成した装置は「カミオカンデ」と名付けられ、観測が始まりました。しかし、陽子崩壊が本当に起きるのか、起きるとしたらいつなのか誰にもわかりません。「多額の税金を使った挙げ句、何も観測できなかったら」常に最悪の事態を想定して準備することを学んだ小柴さんは観測対象にニュートリノを加えるため完成したばかりのカミオカンデの改良を決断します。
小柴「せっかく装置が完成してデータを取り始めたやつをね、また装置をはずして底上げしてということを全部やらなくちゃならない。だから1年以上またデータが遅れちゃうわけ」
司会者「それは、遅れてもやるべきだと」
小柴「これは世界の誰もやれないことだから、これはなんとしてでもものにしたいと」
1年半の改造を終え、観測を再開した1ヶ月後、地球から16万光年離れた大マゼラン星雲で400年に一度と言われる超新星爆発が起こります。
昭和62年2月23日、カミオカンデは宇宙から飛来した11個のニュートリノの観測に成功。
科学史上初の快挙は、小柴さんが大学を退官する1ヶ月前のできごとでした。
小柴「あのニュートリノのパルス(短時間に急峻な変化をする信号の総称)は全世界何十億の人間に同じように降り注いだんだよと。ただそれを見れるように準備していたかどうかの違いだぞって」
物理学者小柴昌俊さん。
卓越した直感力と際立つ個性で偉大な業績を残した94年の生涯でした。
小柴「これやろうと思ったらやれるんですよ。もう、頭振り絞って考える、それが大事」
スーパーカミオカンデ HPより
0 件のコメント:
コメントを投稿