浜松へ1泊2日の旅 1日目 2023年3月10日(金)11日(土)

私の母は4姉妹。90歳の母が長女、88歳の次女(K叔母)84歳の三女(N叔母)81歳の四女(S叔母)です。その次女・浜松に住むK叔母に4姉妹で会いたいというので、私は彼に運転を頼んで母を車に乗せ、浜松へ向かうことになりました。N叔母は広島県から、S叔母は山口県からの集合です。

こんな風に書くとだいたいお察しはおつきになると思いますが、K叔母の調子があまり良くないのです。

※K叔母については以前2022年10月6.7.8日のブログにも書いてあるので、ご興味をお持ちの方はそちらを

10日朝7時20分に母を乗せて出発し順調に車は進み、13時過ぎに浜松駅へ到着。まずは二人の叔母と浜松駅で合流するのです。
浜松駅で二人に会うと、まず帰りの新幹線チケットを買っておきたいというのでみどりの窓口へ向かいましたが、そこにあったのが↓。ちょっと可愛いい。


















また現在浜松は「大河ドラマ『どうする家康』押し」で、下のようなポスターやのぼりがあちこちにありました。




無事チケットを買い、二人を車に乗せてK叔母の住む「介護付き高齢者マンション」へ。

到着し、受付で叔母を待っている時、叔母に渡すお土産を車に忘れたので取りに戻った時それは起こりました。
車から降りようとした時、駐車スペースにある段差に気づかず、左足を妙なひねり方で着地し、それはもうここ10年くらいでこれほど痛かったことはないくらいの痛みに襲われたのです。しかし、これを母や叔母に気づかれると何かと面倒なので隠し通さなければなりません。
幸い私は痛みに関して外科医・加茂純先生からの知識(※別ブログ参照 2023年1月31日 他)を頭に叩き込んでいまいした。
「外傷の治療と痛みの治療は分けて考える」「痛みは止める」
すぐにたまたま持ってきていたロキソニンテープをトイレで貼り、持っていた鎮痛剤を飲みました。
後でわかって来ることですが、相当に痛かったものの大きく腫れ上がることもなく、表面をさわっても痛みはないので、骨折ではないようです。また、痛めたのは左足の小指側側面でこのことは本当に幸いでした。この後も積極的に鎮痛剤を飲んだことで痛みは最低限にでき、足に体重がかかっていない時に痛みはを感じることなく過ごせ、痛みによって精神的ダメージを受けることはありませんでした。当然歩く時の痛みはある程度仕方ありませんが、こちらも歩き方の工夫で何とか最低限に抑えることができたように思います。

K叔母は車いすに乗せられて来ましたが、ずっと目を閉じて寝ているような感じでありながら何かを喋ろうとしています。みんなで聞き取ろうと頑張りましたが、最後までそれがなんだかわかりませんでした。













面会した場所は広い食堂件フリースペースのようなところで、その時間帯はほとんど他の方もいらっしゃいませんでした。ふと見るとそこにピアノがあったので私は
「ピアノ弾いてもいいですか?」
とケア担当の職員の方に聞くと
「どうぞどうぞ」
ということで
・朧月夜・夏は来ぬ・花
などを弾くと、母は叔母の耳元で歌い始めました。
後でN叔母が
「歌を聞いている時、それまでと違って足がずっとブルブル震えているようだったよ。なにかわかっていたと思うよ」
と話してくれました。

K叔母は昨日まではテンションの高い状態で活発に動いていたようなのですが、今日はその反動か、ずっと寝ている感じなのだそうです。
明日の朝もう一度お電話して、もし明日朝叔母が目を開けているようだったらもう一度面会させて頂くことにして施設を後にしました。

夕飯にはまだ少し時間があるのでプチ観光。
宿泊先であるルートイン浜名湖方面にある「新居関跡」へ行くことにしました。
到着するとちょうど閉門でした。

中から係の方が出てきてくださって、ご親切に、資料だけでもと渡してくださいました。
















ホームページの写真↓












<新居関所公式ホームページより>
新居関所は、今切関所と呼ばれ、慶長5年(1600)に徳川家康によって創設されました。幕府は江戸を守るため、全国に53ヶ所の関所を設け、「入鉄砲と出女」に対し厳しく取り締まりをしました。特に新居関所は約100年間、幕府直轄として最高の警備体制が敷かれていました。鉄砲など武器の通行ではもちろんのこと、当関所に限っては江戸へ向かう女性(「入り女」)にも「手形」が必要で、不備が見つかれば通ることはできませんでした。

当関所は江戸時代中期に、自然災害で2度の移転を強いられました。現在に残る建物(「面番所」)は、嘉永7年(1854)の地震でそれまでの建物が倒壊したあと、安政5年(1858)までに再建されたものです。明治2年(1869)に関所は廃止されましたが、明治~昭和にかけて学校や町役場として使われ、当時の建物が日本で唯一そのまま残る関所としての歴史的価値が高く評価され、大正10年(1921)国の「史蹟」に、昭和30年(1955)には改めて国から「特別史跡」に指定されました。

現在、新居関跡の復元整備事業を進めており、これまでに今切渡船場の石垣・護岸のほか、関所の入口となる枡形広場の土塁柵、高札場および大御門、女改之長屋を復元しました。
今後も、船会所や土蔵などの復元整備を計画しています。


「すみません、せっかく来てくださったのに・・・すぐそこに17:00まで無料で入れる『小松楼まちづくり交流館』に行ってみられてはいかがですか」
と教えていただきてそちらへ向かいました。
正直ここまで歩くのが一番辛かった!

<小松楼 (ネット上の説明から貼り付け)>
 新居では大正時代以降、関所の南側に歓楽街が広がり、多い時で60人から80人の芸者がいたと言われています。小松楼は大正から昭和20年代頃まで芸者置屋及び小料理屋を営みました。
 建物は明治末期以前のものを現在の地へ移築し、その後数回の増改築を行っています。2階は座敷となっており、独特の間取りやべんがら色の壁など当時の面影を残しています。
平成22年9月1日から小松楼まちづくり交流館としてリニューアルオープンしました。
NPO法人新居まちネット(下記リンクをご覧ください。)が指定管理者として運営しています。

この建物の雰囲気が、なくなった祖父の家のようで、何となく懐かしい気持ちになりました。













無料で入らせていただき、熱心に説明までしてくださって申し訳ないと思った彼は、そこにおいてあった200円のクッキーを一袋買っていました。

さあ、夕食です。
これ、一番楽しみにしていました。前回浜松に来た時偶然入って感動的に美味しかった鰻屋さん「五條」。いつかもう一度行きたいとずっと思っていたので、迷わずこちらへ向かいました。そして前回気になっていた、厚焼き玉子も乗った「きんし丼」を食べてみることにしました。
本当に美味しいですし、このボリュームで4800円。ちょっと考えられない値段です。皆様ぜひ行ってみてください。













ホテルでは、横浜でも(※別ブログ参照)その恩恵に預かった旅行支援が利用でき、さらに静岡の地域クーポン2000円もいただきました。静岡の皆様ありがとうございます。

その後足を氷でアイシングし、痛み止めを飲んで眠りました。

2日目に続く。


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