書き起こしシリーズ NHK「100分で名著」より
ショック・ドクトリン (THE SHOCK DOOCTORIN)
副題:慘事便乗型資本主義の正体を暴く
著者 ナオミ・クライン
解説 堤未果(ジャーナリスト)
聞き手 伊集院光
<はじめに>
戦争や災害などで国民がショックを受けている隙に急激な経済改革を進める政策「ショック・ドクトリン」。この手法の裏側に迫ったジャーナリスト、ナオミ・クラインは、中立であるべき国際機関や、中国・ロシアがショック・ドクトリンを推し進めていたことを突き止める。
アメリカの新自由主義理論から生まれたショック・ドクトリンはどのようにして思想もイデオロギーも超えて世界を席巻していったのか。その謎に迫る。
<国際機関が推し進めたショック・ドクトリン>
1997年7月アジア経済を揺るがす出来事が起こる。
アジア通貨危機。欧米の投資家グループが待機資金を一気に引き上げたことで、タイの通貨バーツが暴落。そこからインドネシア、マレーシア、フィリピン、韓国へと危機が波及した。
新自由主義のリーダー的存在アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンは
「自分はいかなる経済措置にも反対であり、事態の正常化は市場に委ねるべき」
と主張。
欧米各国、そして国際通貨基金(IMF)もアジアを救うための融資や補助金を提供する気配を見せない。そこには次のような理由があった。
アジア通貨危機は悪化を続け、特に韓国は財政破綻の寸前にまで追い込まれていた。
そんな中IMFは韓国政府にある条件を受け入れるなら融資を行うと持ちかけた。
ワシントン・コンセンサスというこの条件は
・基幹サービス事業の民営化
・社会支出の削減
・完全な自由貿易の実現
といった新自由主義の政策に基づくものだった。
韓国では労働組合が非常に強く、フリードマンの経済政策を導入することは政府としては厳しい状況だった。しかし、背に腹は変えられず、韓国政府は条件を飲み融資を受けることを決めた。
IMFは対インドネシアとも交渉を成立させた。その結果、アジア各国で多くの民間企業が欧米の大企業に安く買い叩かれ、「企業買収バザー」とメディアが報道するほどの事態となった。
国際労働機関(ILO)によれば
この期間に失業したあものは2400万人という驚異的な数に及び、インドネシアの失業率は4%から12%へと跳ね上がった。「改革」がピークに達していた時期のタイでは1日に2000人1ヶ月で6万人が失業した。
韓国では毎月30万人もの労働者が解雇されたが、これもIMF主導による全く無意味な政府予算削減と金利引き上げの結果だった。
=堤=
IMF自体の構造が、アメリカがすごく発言権が強いし、この時たくさんシカゴ・ボーイズも入り込んでる。
IMFが「民営化をしなさい、そうすればお金を貸してあげます」そういうふうにしてしまった。とにかく自由に参入できるように徹底的に保護を外させた。
「自由」という言葉の響きが、アメリカ側のやりたい放題という意味の「自由」に聞こえてきますね。
選挙の時、一筆書かせるなんて、そこまでやるんだという驚きがありますね。
そこまでやると、無法地帯に近いと思うんです。選挙はやってもいいけれど、その後自分たちで国造りをするのはこのルールでやってねと、国を人質に取ったようなものだった。
これってもう、侵略戦争みたいなもんじゃないですか?経済力を使って国をアメリカのやり方に変えていくやり方に聞こえますね。
ほんとにそうですね。IMFという国際機関を、救済してくれる機関だと信じていた人たちにとってこれは疑問。
だからといって失敗とはならないんですね?
何をもって失敗とするかというのは、どの立場から判断するかによって180度変わります。(IMF側から見れば)一時期、失業率が上がるとかあったけれども、最終的には沈静化しましたよね。だから、間違いではなかったと。
IMFについて勉強したときに、日本もすごくお金を出しているはず。この時日本はどうしてたんですか?
日本は中曽根政権でした。あの頃日本は民営化元年。「民営化はいいことだ」と信じていた。
1980年鄧小平率いる中国共産党政府は、積極的に新自由政策を取り入れるため、フリードマンを中国に招待していた。鄧小平はそれから3年後、中国市場を外国資本に開放。さらに労働者の保護を削減する政策を実行する。
また国家の資産が売却されるにあたって、党幹部とその親族が最も有利な取引をし一番乗りで最大利益を手にできるようになったと分析した。
さらに反民主主義的プロセスによる改革、失業の危機への不満が高まると抗議デモが起こり北京天安門広場に学生や労働者が集まり始めた。そして1989年6月4日天安門広場のデモ隊に人民解放軍の戦車が突入。これが、多くの死傷者・逮捕者を出した天安門事件。
武力によって鎮圧されたことにより、衝撃と恐怖のショック状態が中国全土に作り出された。
その後中国共産党政権は更に経済改革を推し進めていく。
一話目のチリの事例で言うと、社会主義に寄って行っている国に対して、自由主義のアメリカが影響を与えたいというのは100歩譲ってわからないではないけど、今回は自由主義と共産主義。相容れないもののはず。
=堤=
ショック・ドクトリンというのは国対国、イデオロギー対イデオロギーで見るとわからなくなっちゃう。欲望で一致するんです。その時求めているものが一致すると、手を組むことができる。事件が起きたあとに、誰がどこに利益が集中したのか、入口と出口を見るとお金の流れでこれが起きている。
鄧小平はフリードマンを招待しましたよね
元々民主主義の国ではないので、中国でこれをやるとスピードが速い。だからフリードマンからしてみても「気持ちがいいくらい自分の理論をこんなにスピーディーにやってくれるんだ」。
武装警察を作ったことで、継続的に恐怖を生み出すことのできるインフラもつくった。だからものすごくスピーディーに市場が開いていった。
共産党の幹部なりその関係者の利益はとても大きくなった。
そこでおかしいという声が上がったので、天安門事件は起こる。
天安門事件で、学生という風に報道されていますが、この本を読むと結構労働者とか教師とかいろんな立場の人が参加した。民主的ではないプロセスでこんなにもスピーディーに切り捨てをやるというのはおかしい。民主的なプロセスで情報も公開してやっていってほしいという声があった。
抗議に対して天安門事件を見せつけることでショックの上塗りていうか、気づいちゃった人もショックで屈服させられる。しかもこれだけインターネットの時代になっても6月4日は検索できないようにしたりとか、要するにみんなに小さなショックを与え続けて諦めさせるということに関しては、相当得意技ですね。
フリードマン理論はある意味徹底的に妥協なくやったわけです。中国のマーケットを開いてほしかった。10億人のマーケットがあるので、財界・多国籍企業からすればとてもいい環境があるわけです。Win-Winなんです。
1991年ソ連のゴルバチョフ大統領は停滞していた経済を立て直すため改革を進めていた。およそ15年かけて主要産業は国家の統制下に置きながら自由主義を取り入れようという計画。
しかし欧米各国は急進的なショック療法をすぐにやるべきと計画を一蹴。IMFや世界銀行からも見放され、ゴルバチョフは四面楚歌になってしまう。
そんな中台頭したのがゴルバチョフの側近、エリツィン。
1991年11月、エリツィンは一気にソ連を崩壊させ、ゴルバチョフを辞任に追い込む。
IMFや世界銀行はエリツィンを熱烈に支持。ソ連の崩壊で国民をショック状態に陥らせた隙に、新自由政策を推し進めるようにアドバイスを行っていった。そしてロシア版シカゴ・ボーイズが国有企業およそ22万5000社の段階的民営化を実施。貿易自由化、価格統制廃止を行っていった。
1993年10月、反エリツィン派により議会はエリツィンの弾劾決議を可決。しかし、エリツィンが軍を動かし、議会を攻撃すると議会側はあえなく降伏。エリツィンは大統領の座を奪い返した。議会攻撃という巨大なショックで国中が騒然となった隙にエリツィンとロシア版シカゴ・ボーイズたちは過激な民営化計画を強行していった。
一方民衆は貧困にあえいでいた。大量の失業者が生まれ一日あたりの生活費4ドル未満の貧困ラインを下回る生活をおくる人が7400万人にのぼった。
これに対してクラインは次のように述べている。
「まるで富裕層と貧困層が別の国どころか、別々の時代に生きているようにさえ見える」
私達日本人は、「エリツィンは民主主義のために戦った」とかポジティブなイメージを聞いてきたと思う。でも中の人に言わせると「エリツィンははじめから民主主義を解体したオリガルヒ財閥側だった」。財閥の側だったということはIMFとかアメリカとか西側のシカゴ・ボーイズたちと相性がいいんです。民主主義を解体してマーケットを開くために全力で外から応援する、ということで西側メディアもエリツィンをものすごく持ち上げた。
ゴルバチョフがやろうとしていたゆっくりとした推移のほうが、国民が納得した形で行ったんだと思いますね。
ショック・ドクトリンはスピードが大事。ゆっくりやってられない。長期計画の民主化のためにお金を貸してくださいと言ったのをIMFは無下に断るんです。だから完全にゴルバチョフは四面楚歌で、エリツィンが出てくる。
私達は日常的にスマホを見ていて速いじゃないですか。これはショック・ドクトリンにしてみたら最高の環境なんです。常に私達情報が入りすぎてゆっくり判断する時間がないんです。それがチャンスなんです。速度を落とさないとショック・ドクトリンは次々に来ますよ。
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