昨日(2024年4月3日)いつものように母をイオン散歩に連れ出し、私はイートインコーナーで訳詩をしようとテーブルを探していた時、あれ?以前の同僚Sさんに似ているような・・・でも違うかな、あれあれ?その隣は以前の同僚Tさんに似ているような・・・声かけてみようかな~~~
「あの・・・Sさん?」
「あ!」
というわけで、お二人のお喋り会に参加させていただくことになりました。
元日震災のとき、Sさんが震源地近くであることは頭に浮かんでいたのですが、20年以上前にお会いしたっきりで現在は個人的お付き合いもなく、ご連絡することはありませんでした。しかし、昨日まで会っていたかのように話し始め、予想通り彼女は被災者。家屋も全壊であることを知らされました。
そしてその内容、彼女がその体験を語る様子、そのものの捉え方はまさにこのブログの題名「悲観は気分、楽観は意思」の「この状況を『楽観しようという意思』で進んでいる人」そのものでした。
話している最中の顔も明るく前向きで、もしこのシーンを撮影して音無しで見たら、まさかこんな大変な話を彼女がしているなんて誰も想像されないと思います。
彼女から聞いたことをどれくらい思い出してここに書けるかわかりませんが、思い出せたものから順不同で書いてみます。
<地震当日のこと>
・大きな被害の出た門前地区にお住まい
・彼女のご両親は10年ほど前に亡くなっていて、100坪以上あるよく「古民家再生」に出てくるようなお屋敷に夫婦二人で住んでいた
・2007年の地震のときも被害を受けていて、その時も家をかなりリフォームをしている
・震災当日、帰省していた子どもたちは帰ったあとで、夫婦二人だけだった
・揺れのその時間、本人は1階、彼は2階。幸い彼女のいた場所はつぶれず身体的被害もなかったが、階段が外れ、彼が下に降りられなくなった。
・彼女は家にあったロープ(彼女はなにかのことでこのロープの保管場所を把握していた)を窓から2階に投げ、彼はそれを太い柱に結んで、壁伝に降りてきた。彼女にそれができたのは、彼女は体育の先生で元バドミントンの日本チャンピオンだから。(たしかダブルス)
・その後避難所へ行くが幸い彼女の集落で亡くなった方はいらっしゃらなかった
<避難生活>
・集まったみんなで「命があれば何でもできるね」と話した
・当日は元日。避難所に集まった人はみなそれぞれおせちを持ち寄って食べた。(ぐちゃぐちゃにはなっていたけれど)
・何もなければ一人でお正月を過ごしていた高齢者も多かったが、みんなで食べることを楽しんだ
・60歳の彼女でもこの中では若年層で、頼りにされた
・多くが田んぼを持っている人なので、お米は豊富にあり、その点では困らなかった
・救援隊も門前までは比較的早く到着できたので、能登半島先端部に比べると様々な物資は早くから届いていた
・芸能人が何度か慰問等に来てくれたが、あれは本当に元気になる
・狭い仮設トイレは本当に困った
・Sさんは現在中学校の非常勤講師だが、しばらくはその学校の音楽室で寝泊まりさせてもらっていた
<住宅>
・仮設住宅を希望したが、夫婦二人の場合5畳一間・バス・トイレ・キッチン。荷物も置くとなるとこれではとても生活できないので諦めた
・はじめは小松市のみなし仮設住宅(アパート)にいたが、あまりに自宅から遠いので現在七尾市のみなし仮設(アパート)で生活中
・住んでいた家は取り壊しが決定し、平屋を建設予定。特に彼はこのこと(設計など)を楽しみ、生きる活力にしている
・「全壊」した人の中には、その全壊住宅の片隅のなんとか住める場所を片付けて住んでいる人もいらっしゃる(水道が復旧したこともあって)。田んぼや畑も持っていらっしゃるので、「そこで体を動かすことで生き生きしてきた」と身内の人も言っている
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