NHK 100分で名著
西田幾多郎・著「善の研究」書き起こし
第1回 生きることの「問い」
解説 批評家:若松英輔
<はじめに・西田幾多郎>
TV番組表でこれを発見し、すぐに録画予約した。
西田幾多郎ですから!
以下のことは美女エッセイに何度か書いているはずだが、改めて書かせていただこう。
彼と結婚することになり、彼の自宅住所が石川県の「宇ノ気」というちょっと変わった名前の場所で、その宇ノ気はあの哲学者・西田幾多郎の生誕地だと知ったとき、それはそれは驚いた。
西田幾多郎ですよ!
ところが、彼も含めて元から住んでいらっしゃる方はと言えば、宇ノ気では駅や学校の入口に西田幾多郎の銅像があったりするし、小学生には「寸心読本」という哲学入門書が配られているというのに、どうもその偉大さをわかっていらっしゃらないように感じている。外から来た私が
「え!この小さな町にあの偉人が」
と、誰かに自慢したい気満々なのに。
なんてもったいない。
私の100歳で亡くなった祖父(1904年生まれ)も以前
「大学の頃『善の研究』を読んだけど全く判らなかった」
と言っていた。
「アレの解説をNHK様がしてくださる」
読まずに済む。しかもNHKからテキストまで販売されているし、電子書籍もあるのですぐに購入した。
録画をみてテキストを読めばもうこっちのものだろうと思ったら、これがそうでもなかった。TVの方はかなりわかりやすかったがテキストは期待したTV番組そのままではなく、かなり専門的。
このままじゃだめだ。これは過去に社会の先生をしなければならなくなったときにやった
「TV番組書き起こし法」
をするしかない。
録画した番組を
「見ては止めて書き起こし、見ては止めて書き起こし」
を繰り返してノートに書き取るのだ。
宗教的要求とは我々の生そのものの要求。そのために人生には「知と愛」が必要。知の力は言葉の力。しかし愛は言葉を超えている。人生にはその両方がいる。
これを敢えて「教育」のことを言っていると限定して考えると少しわかりやすいかも。音楽の授業でも
「優しく歌いましょう」「元気に歌いましょう」
って教え方じゃなくて、優しく歌うための技術、元気に歌うための技術を伝達する言葉が必要だと常々思ってきた。
でも、どう頑張っても言葉にできない「センス」みたいなものがあって、そういうのは使い古された言葉で言えば、教わる側からは「習うより慣れろ」「技を盗め」、教える側はまさに「愛」を持って教えなければそれができない。
「日本最初の哲学書」と言われる西田幾多郎の「善の研究」。西田は明治の終わりに「生きるとはなにか」という人生の根本的な問題と格闘し、日本独自の哲学を誕生させた。
「学問は畢竟(ひっきょう:つまり)Lifeの為なり。Lifeが第一等のこと也。Lifeなき学問は無用なり」
人生の悲哀を乗り越えるため西田が追い求めた哲学とは。
①取り上げた理由
・考える力の大切さ
・昭和22年に「西田幾多郎全集」が発売されたとき、まだ豊かではなかった日本なのに、徹夜してそれを買い求めようとする人がたくさんいた(道路に毛布にくるまり行列する人の写真)。心の糧を求めていた。
・現代は心の糧が足りないのではないか
・明治44年(1911年)刊行
・作者:哲学者・西田幾多郎(1870-1945 戦争終結2ヶ月前没)
・講義ノートや論文をもとに執筆されたが、程なく絶版
・大正10年(1921年)流行作家・倉田百三が「愛と認識との出発」で言及し再販を求める声が殺到→ベストセラーに
・西洋哲学が主流だった時代に誕生した「日本最初の哲学書」とされる
→それまで日本人の「母語」による哲学書はなかった。
「この書を特に『善の研究』と名づけた訳は哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり終結と考えた故である」(「善の研究」序)
「もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない。ここには深き意味がなくてはならぬ」(我が子の死)
西田にとって真理を求めることと人生の問題は分かち難いものとしてあった。
「元来心理は一(いつ)である。知識においての真理は直ちに実践上の真理であり実践上の真理は直ちに知識においての真理でなければならぬ。深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むる様になる。我々は何を為すべきかいずこに安心(あんじん)すべきかの問題を論ずるの前に、先ず天地人生の真相は如何なるものであるか」
(第二篇 実在 第一章 考究の出立点)
この後、若松の解説をタレントの伊集院光が素人代表として噛み砕いて話すという仕組みで番組は進む。
※若松英輔:1968年生まれ。新潟県糸魚川市出身。新潟明訓高等学校を経て慶應義塾大学文学部仏文学科を卒業。ピジョン・クオリティ・オブ・ライフ株式会社社長、シナジーカンパニージャパン代表取締役を歴任。2013年10月から2015年12月まで「三田文學」編集長。読売新聞読書委員。
(Wikipediaより)
若松
先程出てきた「真の実在とは如何なるものなるかを明らかにせねばならぬ」これは、「いちばん大事なのは自分のことじゃない、この世界がどういう姿をしているのか、それを探求していくことこそが本当の自分に出会う道」ということ。
「わかちゃいるけど悲しいんだよ」とか、「理屈はわかったがなんだよこのモヤモヤは」みたいなことを「いやいや理屈でこうなんだからのみ込めよ」というのとは違うんでうよね。
そのとおり。今おっしゃった「モヤモヤ」を決して手放さない。言葉にできることだけで世界を認識するのではなくてその「モヤモヤ」も大事にしていく。
その「全部入りの真の実在」、「全部入りの状態ってなんなんですか?」ということを明らかにしようってことですか?
そうですね。
~善の研究」根本思想は<純粋経験>~
・色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない
・主客が分化しない(主観と客観がひとつになった)「あるがまま」の状態
・「私」の判断や認識の働く以前の経験
刹那なんて瞬間的。私達は経験すると色んなものを自分の価値で判断する。まず言葉から始まっている。いろんな言葉で世界を切っていく。実はどんどん小さくしている。その小さくならない世界そのものというのが純粋経験の世界。
整理整頓してしゃべるということ、思わず声に出ること。(例えば近くにいる人の方に車が来て危ないようなとき)「危ない!」と思わず声が出るときは、それなりに整理が進んでる。だからその前にハッとして息を吸ったところのほうがが純粋経験なのかな。
まさにそうなんです。「危ない!」って言葉が出る前。
第一篇 純粋経験 (書かれた順 3)
第二篇 実在 (書かれた順 1)
第三篇 善 (書かれた順 2)
第四篇 宗教 (書かれた順 4)
西田はこの様に書いている。
「第一篇は余の思想の根底である純粋経験の性質を明らかにしたものであるが初めて読む人はこれを略する方がよい」
若松
これが面白いところなんです。哲学を専門にした人はどうぞ最初からお読みください。でも、世の中には哲学を専門にする人ばかりじゃない。そうすると、(素人さんが)最初から読もうとすると大変なことになる。
この番組では終わりから読んでいきます。
なんだか、スターウォーズみたいですね。スターウォーズは原作の何番目かから映画化されてるんですけど、スターウォーズマニアに言わせると「この順番で見るほうがわかりやすいですよ」みたいな(笑)。後ろから?
西田はわかっててこの本を書いてるんじゃないんです。書きながらわかっていった。西田が穴を掘っている姿を我々は目撃するわけです。我々は穴が堀り上がったところから始めたほうが。西田はとても体力のある人、(西田の進んだ)この道を我々がたどるのはやめたほうがいい。
「宗教的要求は自己に対する要求である。自己の命に対する要求である。我々は自己の安心(あんじん)のために宗教を求めるのではない、安心は宗教より来(きた)る結果にすぎない。宗教的要求は我々の已(や)まんと欲して已む能(あた)わざる大(だい)なる生命の要求である。厳粛なる意志の要求である」
「知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。一言にて云えば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。」(第四篇 宗教 第五章 知と愛)
知と愛とは一つのものなんだ。例えば私達が人を知ろうとします。でもどんなにその人のことを知ってもその人を愛せるとは限らない。愛の力というのはその人を全く知らなくても愛することがある。その両方が必要だと西田は言っている。片方だけではだめだ。知と愛が結びついたところに何かが起こる。
知に対する理解って、理屈と本能とかそういうことですか?
わかりやすく言えば知の力って言葉の力です。私達が言葉によって認識していること。愛の力って言葉を超えてるんです。言葉で理解しようとするということは理屈で理解しようとすることで、これはとても大事な力。でも理屈を超えてものを認識していく力もとても大事。私達は日々色んな所でやっているんです。仕事の現場っていうのは知と愛がなければ成り立たないです。特別なことを言っているわけではなく、私達が日々実践していることを敢えて言葉でいうとこうなるんです。例えば「われが物に一致する」という部分ですが、この「物」を「仕事」に変えてみましょう。私と仕事が一つになるような状態。
そう考えると日本的ですよね。職人における仕事ってそれが人生だし、作っているものに対する愛情みたいなものがそのものと一体だから。
いわく言い難いんですけど、私達が実践していること。愛するってことは自分よりも大事になってるってことですよね。その人(愛する人)の苦しみは自分の苦しみを超えるってこともきっとあるんですよ。
その人が笑うことが俺の楽しいことだってなってくると、今その人を喜ばそうとすることは自分を喜ばそうとすることであって・・・
まさにそのとおり。
その人のためにやってるんじゃないんだよ。それはまるまる自分のため。
まさにそれですね。「私が」ってところから少し離れて世界を考えることができるんです。西田は私達をそこに連れて行こうとしてるんです。
「世界のことを考えている。海というのは不思議なものだ」
海を眺めるのが好きだったという西田幾多郎。
明治3年(1870年)石川県宇ノ気の由緒ある家に生まれる。西田はその前半生で様々な苦難に見舞われる。相次ぐ肉親の死。父親の事業の失敗。やがて西田家の没落。高校を退学した西田は大学に正規入学できず大学時代は専科生として様々な差別にあい、人生の落伍者のような目に遭う。卒業後は就職もままならずようやく中学の教師となった西田は幾度も失職の憂き目に遭う中で禅寺で座禅を組む。その思索の結晶としてのちに「善の研究」が生まれた。
ちょっと僕元気が出るかもしれない。すごい辛い人とかがもしかしたらがんばれるかも。こんなはずじゃないってずっと思ってたんでしょうね。理屈に合わないってよく言いますけど、どうすると理屈に合うんでしょうね。
この時代って人を型にはめようとした時代。それが近代化だったんですね。西洋型という型なんです。西田はそれに強く反発する。学校もまくいかない、先生になってもやめさせられちゃう。そういう意味では枠からはみ出した人だった。
ちょっと似たような面がある人いるんじゃないかな。日本がどんどんグローバル化していって、すごく自由で良い世の中になっていくって聞かされた割には何だ、俺のこの日々の乾いた暮らしは!っていう・・・
ご指摘は大変重要で、この本を皆さんと今一度読み解いていきたい一つのたいへん大きな理由は、そここそ次の時代を作っていく大きななにかがあるんじゃないかということです。たくさん物ができてたくさん物を知っているということに少し違和感を感じている人達こそが、西田がやってくれたように、あるいは大きな苦難を背負っている人たちこそが次の時代を作っていけるんじゃないかということを考えていきたいと思ってるんです。
知と愛、自分のことと自分以外のことを全部知らないと真実にたどり着けないということがテーマだということがわかってきました。
私達は哲学書を読もうとすると、なにかそこに答えがあるんじゃないかと思うんですが、西田はそういう人じゃない。西田は問だけを残していった人なんです。
私達は西田の書物から解決を求めようとすると少しもったいないことをしてしまうかもしれない。
テレビの内容ってすごいなあと改めて思った次第です。
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