NHK 100分で名著
西田幾多郎・著「善の研究」書き起こし
第2回 善とはなにか
第3回 「純粋経験」と「実在」
第4回 「生」と「死」を超えて
解説 批評家:若松英輔
<はじめに・令和元年11月4日(振替休日)現在>
今回の題名を見て
「西野真理、2~4回は諦めたな!」
と思われた読者の皆さん、違います。
第4回までの書き起こし、先程すべて終了いたしました。
しかし・・・・
第1回を読んでくださった方はお判りの通り、1回につき11ページ費やすのです。
私のエッセイは大体120ページ前後ですから、「善の研究」の書き起こしだけでPART17の3分の1が埋め尽くされることになってしまい、これじゃ「美女エッセイ」じゃなく「幾多郎エッセイ」になってしまうという危機感を覚えました。
実は第2回を書き起こし終えた時、すでにそれに気づいていた私は、
「第2回以降は書き起こしたあと要約版を作って、それをエッセイに載せよう。元版を読みたい方にはそれを送って差し上げよう」
とまで考えたのです。
そして第2回の要約版を書いたのですが、それですら5ページ。
一体誰がこれを4回分もお読みになりたいでしょうか。
西野真理のこれを40ページ以上お読みになる根性のあるような方は、最初から「善の研究」本物をお読みになれる方です。
そもそも、西野真理が西田幾多郎大先生を要約しようなんて、おこがましいにもほどがあります。
そこですっかり開き直って、西野真理の一番好きな部分や気になった部分を載せることにしました。
でも、もし全部お読みになりたい方がいらっしゃいましたら裏表紙内側のメールアドレスまでご連絡くださいませ。無料で送信させていただきます。
<第2回 善とはなにか>
・善とは一言で言えば人格の実現である
・大いなるものに畏怖を持って向き合う。その時自己の根底で可能性が開花し、人間は真の自己になる
・善とは考えるものではなく表すもの。行為によって体現されるべきもの
・「人格的要求」とは他者の人格を尊ぶこと。他者を大事に思わなかったときは悪になるということ
・「道徳のことは自己の外にあるものを求むるのではない、ただ自己にあるものを見出すのである」
・言葉を超えて無限と一つになる=善
<第3回 「純粋経験」と「実在」>
・人間が認識し言葉で表す前のそのものを感じること、その純粋経験で捉えたものこそが実在であり、ものをあらしめている働き
・~実在~
・現実そのままのもの
・世界をあらしめている働き(世界の真相)
・「純粋経験」を通じてのみ経験される
・知性だけでは捉えきれない
・経験は個人に属するのではなく、経験があって個人というものが生まれ
る。その経験とは純粋経験と日常経験が折り重なったもの。
ここに真の実在を見出した西田の哲学が、西洋の「人間中心」の世界観を脱した哲学と新鮮に受け止められた。そして「不完全な個人である私でも経験次第で変化していけるのだ」と、当時の青年たちを強く勇気づけるものとなった。
・西田は純粋経験を妨げるものとして3つ挙げている。
思想・思慮分別・判断
<第4回 「生」と「死」を超えて>
・「絶対矛盾的自己同一=異なるものが異なるままで一つになること」
それがこの世界の姿である。西田は「絶対矛盾的自己同一」を自らの哲学の集大成とした。
・仏教の言葉で「多即一(たそくいつ)」というのがある。そのまま。「多はそのまま一である」ということ。「私はそのまま人とつながっているのだ」という考え方。
・世界と己を分けるのではなく、対立や矛盾を乗り越えて一体化しようと
いう西田哲学は、当時の軍部によって政治的に利用されていく。
国が「一」多が「人民」だとすると、それは国のためなんだという言い方もできる。「一」を個、「多」を国にしてみると、それは「国のために自分が犠牲になる」ということになりかねない。でもそこにあるものは、「即」というより「従」。似て非なるもの。「即」というのは分かちがたく結ばれている。吾が事として考えていくということ。でもそこには政治による、力による服従みたいなものがあった。それが故に西田の哲学はある時期には大変批判される。
・自分は孤立して生きていない、人とのつながりの中で生きている自分というものが、自分の気づかないところで自分を支えている
・死は終わりではなくてもう一つの生の始まりなんじゃないだろうか。
「死は即ち生なのではないだろうか」これが絶対矛盾的自己同一。
生と死がぱっと分かれれば矛盾なんかない。でも西田の実感はある矛盾をはらんだ姿が人生やこの世界の実在、本当の姿じゃないだろうか、というのが西田の深い経験の中にある。
・「絶対の自己否定において自己を有(も)つ」とは?
否定という言葉を「自己を握りつぶす」と考えるのではなくて、私が思っている私よりもっと大きな私がありそうだ。大きな私が開花していくのが善なんだ。否定すると言うより、「手放す」という感じ。小さな自分を手放すことによって本当の自分を持つ。
・私達は永遠に生きないんじゃなくて、永遠の世界に生きている。私達が人は死んだら永遠に生きていない、という風に考えているが、その人が考えているのは「生物的生命」。肉体と結びついている生物的生命。しかし、「人格的生命」というのは永遠だ。それは私達の死を乗り越えてなお存在し続けるなにかなのではないか。人間は死んでもなお他者の中のなにかであり続けるような何か、それが人格的生命。
<おわりに>
以上で書き起こし及び気になったところ書き写しの「善の研究」を終わり
ます。どの部分が一番気になったかとういと、第4回の
「自分は孤立して生きていない、人とのつながりの中で生きている自分というものが、自分の気づかないところで自分を支えている」
の部分。これに似たフレーズが頻繁に出てきていていますが、西田幾多
郎の最初の印象というか、「哲学している人」という勝手なイメージは
「人付き合いの上手ではない、自分一人でもなんとか生きていける」
でも、西田幾多郎は「人との繋がりの中で生きる」ということを何度も言
っていることが意外でした。
この番組の中で解説者の若松さんは、西田哲学を一言で言えば
「いのちの哲学」
とおっしゃっていました。
乱暴ですが哲学ド素人はド素人なりに西野真理が西田哲学を一言でいうと
「人はみな向上的変容の可能性を内在する」
でしょうか。
最後に「向上的変容」という私の尊敬する野口芳宏先生の言葉で締めくく
ることができたことにニヤッとしています。
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